春学期 第2回4年ゼミ

こんにちは。今回の執筆担当は提中です。
今回から本格的に4年生のゼミが始動しました。
昨年度は3年生のゼミの活動内容についてのみ報告をしていた本ブログですが、
今年度から4年生も活動もこちらのブログにて報告をさせていただくことになりました。
3年次には、廣野由美子著『批評理論入門』をテキストとして使用し、
小説技法や批評理論を学んできた私たちですが、
4年生ではマイケル・ライアン、メリッサ・レノス著、田畑暁生訳『Film Analysis 映画分析入門』をテキストとし、映画の技法や批評方法について学んでいきます。

以下、第2回ゼミのレジュメです。今回のゼミの内容について詳しくはレジュメをご覧ください。

第2回_4年ゼミレジュメ

今回は、『Film Analysis 映画分析入門』の序章「映画における意味」と第一部の第一章「構図」について議論を行いました。第一部では主に映画の技巧について学んでいきます。
第一部第一章では、映画技巧の「構図」について詳しく説明されていました。
登場人物の位置関係や占める割合などの構図によって、人物間の上下関係や支配関係が描かれている、ということでした。
『Film Analysis 映画分析入門』には映画をみて、分析を行うという課題があるのですが、
発表担当であった室さんがDVDを借りてきてくれたため、実際に映画を流しながら、
今回の内容を使って分析を行いました。

今回は、『ガス燈』(1944)の25:50~27:00のショットの分析をしました。
課題は、フレーム内のナンシー(家政婦の女性)とグレゴリー(雇用主の男性)、ポーラ(グレゴリーの妻)をフレーム内の分割のされ方から比較する、というものでした。
議論では、グレゴリーとポーラは対等な位置関係であるのに対し、ナンシーとグレゴリー、ナンシーとポーラがフレーミングされる際は、常にナンシーが画面下部に配置されるということから、ナンシーがグレゴリーやポーラに比べ、低い階級にいるということが構図から見て取れる、ということになりました。
また、ナンシーとグレゴリーが鏡越しに会話をするシーンがあるのですが、
このシーンでナンシーは鏡に映された姿でしか映りません。これは鏡=フィルターを通して見る、ということから、雇い主と雇われ主の関係が現れているのでは、ということも議論に上がりました。

今回の議論は、テキストの内容を実際に映画を見ながら、実践し、分析を行ってみるという形になったのですが、今後のゼミでもこの形式が恒例となりそうです。私は昔に公開された名作映画をあまり見てこなかったので、ゼミを通して様々な名作映画に触れていくことができたらいいなと思っています。

では、また次回お会いしましょう。

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プレゼミ合宿 in南房総

こんにちは。今回ブログ執筆担当の室です。

今回の記事は、二月に行ったプレゼミ合宿の報告です。

 

2月25・26日に、一泊二日のプレゼミ合宿を行いました。

開催場所は千葉県南房総市。ゼミ生だけでなく、卒業生や、株式会社ココロマチからも2名に参加していただいた他、南房総市の職員さん、2日目の会場であるヤマナハウスのメンバーのみなさんなど、多くの方に参加してもらい、賑やかな合宿になりました。

新三年生にゼミの活動を理解してもらうことが目的の合宿でしたが、リバティータワーの一室で行っている活動とは全く異なる体験ができ、現三年生もたっぷり楽しんだ二日間になりました。

 

初日は、シラハマ校舎にて内藤先生による講義を受けた後、懇親会を行いました。

 

午前中にハイウェイオアシス富楽里に到着しました。南房総市の新鮮な食材にはしゃぎつつ、昼食のお総菜や、懇親会用の野菜を購入。

その後、会場であるシラハマ校舎へ。宿泊棟なども案内していただきました。

南房総プレゼミ_170227_0089

そして今回の合宿のメインとなるプレゼミ授業に。

授業の前に、ちょっと変わった自己紹介をしました。

参加者それぞれが、本名とは違う名前を名乗るというものです。合宿中の二日間は、その名前で活動するというルールを設けました。

好きな映画のヒロインの名前、飼い猫の名前、好きな食べ物の名前・・・などなど、それぞれが自由に名乗り、覚えきれずに大混乱に。

普段と全く違う名前で呼ばれたりするのが、いつもの自分とは違うような気持になれて面白かったです。

 

授業の内容は、内藤先生の授業では恒例の「論点を立てる練習」に始まり、その後事前に配布されたテキストをもとに、チームごとに議論していく形で進めていきました。

チーム分けは、学生と社会人で分けたりはせず、一緒に議論をしました。

学生と社会人で区別しなかったのは、今回はみんな内藤先生の授業を受ける「生徒」という関係だからです。普段は社会人の方と対等に接する機会はないため、新鮮でした。

 

その後の懇親会では、念願のバーベキューをしました(夏合宿では天候不良により実現しなかったのです・・・)。

南房総市の食材を楽しみつつ、ゼミ生同士や、ゼミ外からの参加者のみなさんと交流しました。

南房総市ではたくさん咲いている菜の花ですが、焼いて食べるととてもおいしかったです。

 

二日目は、百姓屋敷じろえむさんにて昼食をいただいた後、ヤマナハウスに移動して活動しました。

 

ヤマナハウスに到着後、ゼミの講義に入る前に、ヤマナハウスの活動に参加させていただきました。

農作業組、土間づくり組の二手に分かれ、45分で交代し、両方の作業を体験しました。

普段の活動では着席しひたすら議論・・・という状態なので、体を動かしてゼミ生はヘトヘト気味でしたが、普段はできない農作業などを体験でき、楽しかったです。

南房総プレゼミ_170227_0399

その後、ヤマナハウス室内で円になって座り、「研究とは何か」というテーマについて話し合いました。

社会人のみなさんにとっての「研究」についてお話をうかがい、今やっている研究は大学にいる間だけでなく、今後の人生でも向き合っていくものなのだと知り、身が引き締まる思いでした。

 

以上のプログラムを経て、プレゼミ合宿が終了しました。

天候にも恵まれた南房総ののどかな自然の中、社会人のみなさんと議論したり、経験を語っていただいたりした今回の合宿は、忘れられないものになりました。

 

最後に、参加していただいたココロマチの吉山さん・奈良さん、ヤマナハウスのみなさん、南房総市の職員のみなさん、ありがとうございました。

また、南房総市職員の真田さんには、二日間、ゼミ生の移動を車で助けていただいただけでなく、地元の方ならではのスポットを案内していただくなど、とてもお世話になりました。

たくさんの方に支えられて活動ができているのだと改めて感じました。

ゼミでの活動も残り一年、ひとつひとつの活動を大切にしていきます。

 

秋学期第11回ゼミ

こんにちは!あと数日で春休みも終わりますね…。今年度のやり残しは今年度のうちにということで、12月6日に実施した授業の記事担当の相田です。

 

3ヶ月以上前の授業ですが、覚えている範囲で記事を書いていこうと思います。

 

今回議論したのは、文化批評への足掛かりとして、遠藤英樹氏の『現代文化論:社会理論で読み解くポップカルチャー』より、ポピュラーミュージックとアニメを題材に議論しました。

 

まず初めに、文化資本論という考え方について議論しました。文化資本は、経済資本と社会関係資本に連なる、ピエール・ブルデューによって提示された資本です。

文化資本には、教養や立居振舞といった「身体化された文化資本」、親などから受け継いだ絵画や彫刻品といった「客体化された文化資本」、国家資格や学歴といった「制度化された文化資本」の3種類があります。

 

私達は、社会をこの文化資本、経済資本、社会関係資本の3つを様々に組み合わせながら、生活しているとしています。そして、私達の持つ文化資本がぶつかり合うことで生じるのが、「象徴闘争」であり、今回はその事例として、音楽が取り上げられ、同時に「経路(ラウツ)」という考え方にも議論を進めました。

 

ちなみに、このラウツという考え方、ゼミ内で新歴史主義に次ぐレベルの大議論に発展しました。本質主義でもなく、かといって多元主義でもない。ルーツ(起源)とも違うということで、かなり議論が迷走したのは今でも覚えています。今自分が民族や人種の中でどのような立ち位置にいるのか、また、今まで自分のたどってきた道を何のために、だれのために何を使って表現しているのかを点ではなくもっと広くとらえた考え方なのはかろうじて分かったかなと思います。要復習ですね。

 

 

次に、ディズニーアニメーションを使って、ソフト・パワー論について議論をしました。

ソフト・パワーとは、軍事力や経済力といった強制的で暴力的な力ではない、その国が持つ魅力のことを指します。ソフト・パワーの源泉は政治的価値観、外交政策、文化から成り立っています。

 

日本のアニメーションは「クールジャパン」に代表されるように日本のソフト・パワーの重要な源となっている。しかし、それ以上に世界規模で強力なソフト・パワーを形成しているのが、ディズニーアニメーションである。

 

ディズニーアニメーションは強力なアメリカのソフト・パワーの形成に多大な貢献をしていますが、アジア諸国を「東洋」というステレオタイプ化したイメージのもと表現し、オリエンタリズム論にしばしば取り上げられている。第12回の授業では、「ジャングル・ブック」を用いて、文化批評の実践へと進んで行きました!!

秋学期第13回ゼミ

今回は秋学期第13回ゼミについてのブログです。
執筆担当は提中です。

2016年を締めくくる第13回のゼミは、ゼミ生の希望により、
後期期末論文の相談をしようという回になりました。
4日後に論文の提出を控えていた私たちは、
各自書けているところまでの論文を持ち寄り、1人ずつ時間を取りながら、
執筆において悩んでいることや、修正した方が良い点はあるかなど、
相談をし、それについてアドバイスをしあいました。
このようにひとりひとりの論文に対して時間を取って、
親身になって相談をしあうことが出来る点は、
内藤ゼミに入って本当に良かったと思う点のひとつです。

皆にもらったアドバイスのおかげもあり、
12月24日、クリスマスイブが論文の締め切りだったのですが、
無事に後期期末論文を提出することができました。
そこからさらに何度か修正を加え、なんとか今年度の論集を完成させることが出来た私たちですが、
次は卒業論文が待っています。
もうすでに書きたいテーマが決まっている人も、そうでない人もいますが、
(ちなみに私はまだ考え中です…)
卒業論文も一人で書いていて悩んだ際には、
こうして皆の力を借りつつ、助け合いながら書いていけるといいなと思います。

秋学期第12回ゼミ

こんにちは、横野です。

 

今回はラドヤード・キップリングの小説『ジャングル・ブック』を読み、ポストコロニアル批評を行いました。

 

実は第11回のゼミでディズニーアニメにおけるオリエンタリズムについて議論になった時、「今放映されているディズニー映画の『ジャングル・ブック』は、オリエンタリズムが顕著に出ているのではないか?」という話になり、急遽ジャングル・ブックを扱うことになったんです!

 

今放映されている作品は持ち込むことが出来ないため原作の小説を批評し、比較・参考資料としてディズニーが過去に制作したアニメ版も用いました。

 

実際に作品を読んでみると、ポストコロニアル批評で読み解ける部分がたくさん見つかりました!

ディズニー好きの室さんだからこその発見です。さすが…。

 

早速始めていきますね。

 

まず、『ジャングル・ブック』についてです。

 

ジャングル・ブックは、ジャングルで育った黒髪の少年モウグリの物語です。モウグリは黒ヒョウのバギーラに拾われオオカミに育てられましたが、オオカミ達によって人間の村に帰そうという話になります。オオカミに頼まれたバギーラはモウグリを人間の村に連れていくため、熊のバルーと共にモウグリと過ごしながら様々な困難を乗り越えます。そして、最終的にモウグリは自ら人間の村に帰っていくというお話です。

 

今回はその中でも「カーの狩り」という短編を考察しました。

 

「カーの狩り」では主に下記の人物・動物が登場します。

 

モウグリ:黒髪の少年。

バギーラ:黒ヒョウ。モウグリを拾った存在。

バルー:熊。陽気な存在。

カー:ニシキヘビ。モウグリを食べようとする。

バンダー・ログ:サルの集団。モウグリをさらう。

 

この短編をポストコロニアル批評で読み解くことで、

【登場人物のビジュアル】

【バンダー・ログの存在】

【インド市の描写】

の3点が浮かび上がってくるという話に。

 

【登場人物のビジュアル】

モウグリは作品内で褐色肌、黒髪、黒い瞳など、様々な特徴が描かれています。また、作品内においてモウグリは野性的な描写を誇張して描かれているという話になりました。

最終的にモウグリはインド市に帰っていくため、インド人であることが分かっています。

この事から、作品内でインド人の野蛮さ、野性的さが描かれているという結論に。

 

【バンダー・ログについて】

サルの集団であるバンダー・ログはジャングルにおいて接することが禁じられるなど、疎外された存在として描かれています。

また、掟を持っていない・自分たちの言葉がない・リーダーがいない・記憶がなくなるなど、他の動物に比べ能力の低さを誇張して描かれています。

 

発表者の提中さんは作品を読んでいる中で「インド人か日本人をモデルにしているのでは?」と考察し発表してくれましたが、議論の中では日本人をモデルにしているという結論に。

 

また、作品が執筆された1894年は日清戦争が起きた年でもあります。このことも影響しているのでは…という話になりました。

作者はイギリス人ですが、アメリカでは日本人が「イエローモンキー」と呼ばれていたよね、など様々な事例も

出てきました。

 

やはり私達自身が日本人なので、バンダー・ログについてはかなり盛り上がりました。ちょっと悲しい気持ちにもなりましたが…(笑)

 

【インド市の描写】

作品内でバンダー・ログはインドの廃墟した都市に住んでいます。

モウグリは当初その市が「すばらしいところ」と発言していましたが、その後「すごくひどいところに来てしまった」という消極的な発言に変わっています。

 

作品内ではわざとらしく腐敗した市の描写がされていることに疑問を持ち、「これはインドが植民地であることを表しているのではないか」という話になりました。

 

これら3点の問題は全てアジア、とりわけインドに対する嫌悪感や差別思想が表れています。

これは作者の経歴が大きく影響しているのでは?という話に。ここで軽く作者について説明を。

 

ラドヤード・キップリングはイギリス人作家で、生まれはイギリス領であるインド帝国ボンベイ。『東と西のバラッド』という作品では「東は東、西は西」という言葉を残しています。帝国主義者でもありました。

 

このように、キップリングは“イギリス人であるがインドで生まれ育ったどっち付かずの存在”という特殊な経歴だったんです。

イギリス人でもインド人でもない中途半端な存在…

あれ?これ、どこかで似た人を見ましたよね?

 

そう、モウグリもそっくりな状況なんです!ジャングルで育ったけれど、人間であるどっち付かずな存在。

 

つまり、作品と作者を重ねると、作者のインドに対する嫌悪感やイギリス・西洋の優位思想が表れるんです。

キップリングはインドで生まれ育っているけれどイギリス人であることに悩んでいたのだろうね…と皆で議論していく中で徐々に同情してしまいました。

 

そして、映画作品についても触れることに。

 

3期生は5人中3人がジェンダーに興味を持っていることもあり、映画作品では人間の女の子の描き方に気になる点が集まりました。

 

映画の中でモウグリは人間の村に帰ることを嫌がっていましたが、ジャングルの茂みから見た女の子に恋してしまい、村に行くことを決めます。

 

その女の子を見つけ、出会ったシーンが気になる!という話に。

 

・女の子は黒髪褐色。

・モウグリに気付いた女の子は意味深な微笑みをモウグリに見せる。

・水瓶で水を掬う間も目配せを送る。誘惑の表情。BGMもムーディーな音楽に。

・わざと水瓶を落としモウグリを呼び寄せ、最終的に水瓶をモウグリに運ばせる。

 

これらから、アジア人の女性に対する神秘的魅力・誘惑する存在という思想が表れているよね、という結論になりました。

 

 

今回はここでゼミが終了しました。

これまでこの作品を読んでいればバンダー・ログはただの嫌なやつだという印象で終わっていたとおもいますが、ポストコロニアル批評を通して、自分達アジア人を揶揄している存在と知ることで妙に親近感が湧いたりと、これまでとは違う読み方が出来る「批評理論」の楽しさを実感できる回だったなあと思います。

秋学期第10回ゼミ

お久しぶりです。今回のブログ担当の前田です。

ここまで二回にわたって夏目漱石の『こころ』と、それに対するクイア批評であるキース・ヴィンセントの論文について議論してきました。今回は今までとは打って変わり、これらの議論の内容理解を深めるためにゼミ生それぞれが『こころ』の批評を行いました。

共通の作品の批評といっても、やっぱり人によって切り口が違うため個性が出ます。それらの多様で乱雑な発想を統合し、新たな観点を導き出すことができるのもゼミの醍醐味かもしれません。

以下は議論中に出た見解についてです。

ある人は、前回の課題として挙げられた「行為遂行性」という概念と絡め、『こころ』のセクシュアリティを論じました。言語には、事実そのものを言う「事実確認的発話」と、その言語自体に遂行の意を与える「行為遂行的発話」の二つが挙げられます。この作品の語りが遂行的な機能をもつものとして読むと、『こころ』とは読者にセクシュアリティを経験させる意図で書かれた、なんとも性教育じみた物語として解釈することができます。

またある人は、『こころ』を西洋優位的な思想に支配される日本を描いた、ある種のポストコロニアル的な作品だと論じました。都会の地で西洋の学問に精通した先生を讃え、田舎に暮らす古くさい父親に対してしばしばネガティブな思いを抱くという対比は、確かに西洋の思想に淘汰される古き日本を連想させます。

さらにある人は、『こころ』に加えキース・ヴィンセントの論文の批評を行い、彼の論が抱える限界について指摘しました。キース・ヴィンセントは論証する過程でフロイトの論を用いていましたが、それでは論の核となる「主人公は同性愛者か異性愛者」かという問いに対する答えが、解釈次第でどちらとも取れてしまうという問題が挙げられました。その打開策として、セクシュアリティを論じる上では新たな理論を導入することが必要ではないかという提案がなされました。

どれも面白い意見であり、なおかつ今後の研究に必要なイマジネーションを呼び起こしてくれるものだったと思います。特に僕らの学年はジェンダー論に興味がある人が多く、キース・ヴィンセントのセクシュアリティ批評まで絡めて論じることができたのはとても有意義なものだったと思います。

秋学期第9回ゼミ

第9回は、夏目漱石『こころ』を扱い、ジェンダー批評の中でも特に「クイア批評」を学びました。

クイア批評を理解するために使ったテキストは、キース・ヴィンセント「夏目漱石『こころ』におけるセクシュアリティと語り」です。

執筆担当は室です。よろしくお願いします。

 

『こころ』は、批評の上でそのホモソーシャル性に着目され、「同性愛小説」として読まれてきました。この読み方に対し、違う読み方の可能性を指摘したのが、今回扱ったキース・ヴィンセントの論文です。

同性愛小説として評価されてきた『こころ』ですが、キースはそれを否定し、『こころ』は同性愛小説でも異性愛小説でもなく、それらの対話を可能とするテキストである、としました。

今回は、論文を踏まえて議論を発展させるというよりも、この論文の内容を理解していくということを中心に議論していきました。

ですので、今回のブログは議論の内容というよりも、キース・ヴィンセントの論文を私たちがどう理解したかという点を中心に書こうと思います。

 

キース・ヴィンセントの論に触れるために、まずそれまで『こころ』がどのように読まれていたかを確認します。

『こころ』が「同性愛小説」とされてきたことは先ほども述べましたが、さらに言うと、「ホモソーシャル共同体をめぐる」歴史的な断絶、つまり「男性間の愛の可能性」が存在する世界と、「男性間の愛の可能性」から切り離された世界との断絶を描いたテキストであるとして、歴史主義的な読み方がされてきました。

その際注目されたのが、愛について語り合う作中の以下の会話です。

 

「私の胸の中には是といふ目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはゐない積です」

「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだらうと思つて動きたくなるのです」

「今それ程動いちやゐません」

「あなたは物足りない結果私の所に動いてきたぢやありませんか」

「それは左右かも知れません。然しそれは恋とは違ひます」

 

ここから、「男性間の愛の可能性」を認識している「先生」と、認識していない「青年」とのすれ違いが生じていることが指摘されてきました。

このことが、『こころ』が「セクシュアリティの歴史的な断絶」を描いたテキストであるという読み方につながっていました。

 

しかし、キース・ヴィンセントは『こころ』の持つ「遂行的な機能」により、歴史主義的な読み方の有効性が失われていることを指摘します。

 

『こころ』は、「青年」が成長した現在から、先生と過ごした「過去」を語るという方法で描かれます。

しかし、保守派の読み方ではこの語りの複雑さが無視され、「青年の語りの客観性を自明視」してきました。

そして、『こころ』の主人公は先生であるとし、先生により語られる「先生と遺書」ばかりが批評の対象とされてきました。

先生の遺書に表明される価値観は絶対的なもので、青年は「忠実に先生の物語を伝えるだけの存在」とされてきたのです。

 

これを批判したのが小森陽一という人物です。

小森は、青年による一人称の語りに焦点化し、「青年が亡くなった恩師の失敗から教訓を学ぶ物語」であると読みました。

これにより、「先生と遺書」のみに焦点化された読みとは異なり、青年を主人公として読むことが可能になりました。

 

しかしキース・ヴィンセントは、小森が先生の性格描写が年下の青年によって語られていることを考慮していないことを指摘します。

「異性愛者」として成熟した青年の「欲望」が、青年の語りに表れていることを、小森の読みでは考慮されていないというのです。

「先生」が同性愛者のように描写されたことや、先生と青年とのすれ違いが強調されたのは、そこに「自分は異性愛者である」と思いたい青年の「編集」が加わった上でのものであることをヴィンセントは指摘しました。

青年である「私」は、自身の異性愛者としての「成長」を語ることで、先生を「性的発達を阻害させた存在」として語ります。

「青年」には「自分は異性愛者である」という欲望があり、それが反映され、「先生」と「自分」を差異化するために、先生を「ホモソーシャルな世界から抜け出せない」過去の存在として描いたのです。

それまでの議論ではこのことを考慮していないがために、先生が同性愛的に描写された場面ばかりを抜き出し、先生を同性愛者としてきたのでした。

 

『こころ』では、先生の遺書を読み、先生のもとへ向かった後の青年がどうなるのか、明確に語られることはありません。

明確な結果を提示しないことで、多様な読解が可能になるテキストになっています。

そのため、『こころ』は、その物語をどう読むかによって、『こころ』という物語について以上に、読み手がどのような歴史的立場にいるのかを明らかにするテキストであるとキースは指摘します。

これが冒頭の「同性愛小説でも異性愛小説でもなく、それらの対話を可能とするテキストである」という主張につながります。

『こころ』は、「同性愛小説」とも「異性愛小説」とも断定されることはなく、読み手がどのようなセクシュアリティの立場にいるのかにより読み方が変わってしまうテキストです。

 

私は今回の論文については理解が追いつかず苦戦しましたが、次回の議論を通して「語り」の奥深さを知ることができて楽しかったです。

ですが、今回のブログではヴィンセントの論文の面白さを伝えきれていないと感じたので、普段から自分の中で内容を整理しながら議論していくように心掛ける必要があると感じました。

次はわかりやすい文章を書けるよう頑張ります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。