秋学期第2回 3年ゼミ

こんにちは。夏休み、アルバイトして実家に帰って免許合宿に行っていたら終わったような気がします。大下です。

第1回授業は春学期最終課題の反省とオリエンテーションでした。秋学期3年は話し合いの結果、カルチュラルスタディーズ、ジェンダー研究、精神分析、新歴史主義、脱構築と構造主義の5つのテーマに絞って授業を進めることにしました。第2回授業はカルチュラルスタディーズのテーマから、映画『さらばわが愛、覇王別姫』を読み解きます。

 

第2回授業使用論文:本橋哲也『映画で入門 カルチュラル・スタディーズ』第6章〈セクシュアリティ〉『さらばわが愛、覇王別姫』

映画の作品分析は合同ゼミ、4年授業の見学、合宿での合同分析で経験を積んでいた二人。2時間を超える大作に苦闘しながらも、視聴してきました。議題にしたことは ①セクシュアリティとは何か ②セックスとジェンダーは対立ではないといえるのはなぜか ③カルチュラルスタディーズとは何か ④なぜこの作品が「カルチュラルスタディーズ」の論文に掲載されているのか ⑤表象作品を分析する理由とは何か ⑥”象徴”とは何か です。復習がてらにと重たい質問をどんどんぶつけられしどろもどろな二人……。本日はいつも以上に先生にご迷惑をおかけいたしました。

ここにすべての議論をいちから載せるのは字数的によろしくないので、PDFをはりつけておきます。秋学期第2回カルチュラルスタディーズ

積み残しもありますが、ともかく2時間頑張りました。相田さん、助っ人ありがとうございました。

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春学期第14回 3年ゼミ

こんにちは。今回の担当は大下です。

3限は前回の内容とかぶりますが「ポストコロニアル批評」、それから「新歴史主義」について、おなじみ批評理論入門から学びます。4限はミシェル・フーコー『知の考古学』から「4 比較に基づく事実」を取り上げます。(権力云々は時間上深く学べず)

 

ポストコロニアルは前回の蓄積があったのでかなりさらっと。植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品を研究する、あるいは帝国主義的文化圏出身者の作家が書いた作品で、どのように植民地が描かれているのかを研究するという手法があります。日本はこの場合、西洋から見ると東洋に属する一国である一方、アジアにおいて支配者になった歴史があることから、立場的に微妙な位置におかれています。

では『フランケンシュタイン』ではポストコロニアル的に読み解くとどうなるのでしょうか。批評理論入門では、オリエンタリズムが、ド・ラセー家に訪れるトルコ人娘サフィーの登場する場面に見受けられると書いてあります。作品内においてトルコ人は、民族的偏見ゆえに無実の罪を着せられた犠牲者としての一面と、狡猾な忘恩者としての一面を持たされています。さらに、サフィーの母親がキリスト教のアラビア人であるために、サフィー自体を肯定的に描いていたり、あるいはサフィーにフランス語を教えるものとして使われた『諸帝国の廃墟』において、アジア人の劣勢とヨーロッパ人の先天的・文化的優勢とが対比されているなど、この場面ではさまざまなオリエンタリズムが垣間見えます。一方で、ヴィクターの人造人間製作、ウォルトンの北極探検、クラヴァルのインド植民地化構想は、すべて挫折に終わっていることから、この作品においてアジア人は劣勢に物語られているけれども、ヨーロッパ人による侵犯行為も成功に至っていない(優勢に描かれているわけではない)ということになります。

ポストコロニアル、オリエンタリズム共に理論に疑問はなかったので、授業内では少し発展的なことを議論しました。アジア圏内でも日本国内でも、オリエンタリズム的支配があるということ。その根底には国民国家という難しい問題が絡んでいます。何をもってして一国家とし、その国家にどのような人は入ることができ、どのような人が排除されてしまうのか。あるいは日本人とはなんなのか。どんなことを理由に日本人となりうるのか。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』の話も持ち上がりましたが、”日本”というものがあると想像することで”日本”が沸き起こってくるという現象、たしかに否めないな、と思いました。結局違いなんてないのにわざわざ違いを見出そうとするために他者をさげすみ、自分を優位に見せ、存在を示そうとする。人間のあさましい欲の表れのような気がして、寂しい気持ちになります。

 

さて、新歴史主義に移りますが、大下、ぶっちゃけよく分かっていないような気がします!!ただ忘れているだけなんだったらいいのですが……ひとまず振り返りを。

新歴史主義は1980年代から起こり、再び歴史という要因を文学研究に復活させた一派のことです。旧歴史主義のようにひとつひとつのできごとを重視したり、特定の時代精神と歴史を結び付けたりするのではなく、歴史をより広範に社会学や文化人類学など〈社会科学〉と位置付ける考え方です。

先生から理解しやすいように教わったことがメモ書きされていたのですが、要は旧歴史主義ではアンネの日記、源氏物語を虚構であるためにその時代の歴史として認めず、説明や論証に一切使わないのに対し、新歴史主義ではそういったものもより広い視野で歴史をみるために取り扱うこともある、ということです。これで大分納得がいったのですが、批評理論入門では十分な解説を受けられなかったので、4限フーコーのほうに議論を移しました。

フーコーは新歴史主義的な読解作業のことを、”考古学的分析”と名付けています。文章が難解なため、彼の言いたいことは上記のようなことだという姿勢をブレさせず、文の詳細確認に勤しみました。いままでA領域のことはA領域内でしか語られてこなかったものを、B領域、C領域のなかで咀嚼する。そうしたことが考古学的分析であり、こうして次々と新たなものを浮かびあがらせることができるために多様化を促すものである。また、あるものは一つの領域にしか存在しないと思われていたが実はさまざまな領域にわたって存在することが可能であったことを示したりもできる。ということを読み取りました。的を射ていればよいのですが(笑)

 

春学期、お疲れ様でした。

春学期第13回 3年ゼミ

今回の担当は増尾です。

7/11の第13回では
3限 廣野由美子著『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-』(中公新書)の第2部 8「マルクス主義」、9「文化批評」
4限 エドワード・W・サイード『オリエンタリズム 上』
をとりあげました。

3限の担当は増尾。

 

第11回ブログ きました!マルクス主義!!!さぁ!!ついに!私はマルクス主義と仲良く………………

なれませんでした!!!!!
知り合いからよっ友(すれ違いざま等に「よっ!」と声をかける程度の友だちのこと)くらいにはなれたと思うのですが……。

と、くだらないことはこれくらいにして。
やはりマルクスは難しかったです。自分の考えたことのないことということがあり、単語単位で調べることからはじまりました。

ただ、今回は『フランケンシュタイン』を絡めた形での読解となったので、前回よりも理解が進みました。

経済状況があるうえで、思念が生み出される。
ということは、作者の考えすらも社会・経済状況があってこそ。
作品には作者の考えが反映されている=社会・経済状況が反映されている ということでした。

直接は描かれていないことに注目し、矛盾を見出していくことから、解釈をしていくということが重要らしいのです。

作者であるメアリ・シェリーは資本主義者であったにも関わらず作品の中では資本主義について描かれていませんでした。ここに矛盾が!!
→新しい主義へと移行していたのでは?という解釈ができる。

マルクス主義自体について深く理解出来た自信はありませんが、文学におけるマルクス主義批評は少しだけ理解が進んだと思います。
まだまだ奥が深そうですが……まけない!!

4限の担当は大下。
オリエンタリズム。
西洋が西洋あるために、東洋に対する植民地支配を正当化するためのものであるということでした。

差別的であり、反人間的な思想ではあるのですが、オリエンタリズムがあるからこそ東洋というものも浮き彫りになったのではないかと思いました。

オリエンタリズムは異なる文化や伝統を極端に区別してしまう。本来世界は少しずつ混ざりながら共存しているものであり、完全な区別は社会に属する人間同士の出会いを制約してしまうものだと言います。

西と東で分けた時、東に位置する日本人としては複雑な思想ではあると感じました。
支配し、されてきた両方の面をもつ日本はオリエンタリズムについてどのように捉えていくべきなのだろうか……。と考えるきっかけになりました。

さてさて、次回で春学期は最後となります。
秋へ向けた有終の美を飾るべくさらに精進していきます!!

増尾

春学期第12回 3年ゼミ

こんにちは。今回の担当は大下です。

第12回は性に関する批評体系について。3限では批評理論入門から「フェミニズム批評」、「ジェンダー批評」を取り扱いました。

 

フェミニズムとは1970年代以降に登場した、性差別を暴く批評のことで、これまで男性作家によって書かれていた作品を女性の視点から見直し、男性による女性への抑圧がいかに反映されているかを指摘します。さらに、男性文化によって無視されてきた女性作家の作品を発掘したり、女性の書いた作品を再評価する動きもあります。

メアリ―・シェリーは『フランケンシュタイン』を出版する際、自分の名は伏せていました。メアリーと同時代の女性作家も男性名や中性的な名前を使用していたことから、当時作家が女性であることは批判を招く恐れがあったことが窺えます。また、パーシーの作品介入を黙って受け入れている点、夫の死後、その作品を手直ししている点から、この時代夫が優越権をもつことが当たり前であったことも考察できます。

『フランケンシュタイン』において、登場する女性は直接自らの口で語ることをしません。また、男の登場人物の多くは故郷を離れて旅や仕事をしますが、女性はほとんど家(あるいは土地)から出ることがありません。

 

ジェンダー批評において性別とは、社会や文化によって形成された差異・役割です。フェミニズムと違い、男女両性を連続的なものとして捉え、男・女という一般カテゴリー自体に疑問を突きつけます。

批評理論入門では、ジェンダー批評の括りの中から〈ゲイ批評〉と〈レズビアン批評〉が取り上げられていました。

ゲイ批評の観点から見ると、ウォルトンの男同士の友情に対する憧れ、ヴィクターとクラヴァルの看病と旅行といった男同士の博愛がみてとれます。また、レズビアン批評では、ジャスティ―ヌに焦点が当てられていました。彼女は唯一男性との接点がなく、エリザベスへの熱のこもった言動などから、同性愛的な情念が垣間見えると分析できます。また、ジャスティ―ヌが死んだ理由に、同性愛という不浄の罪があった、と読み取ることもできるのです。

 

以上が批評理論入門のあらかたのまとめです。フェミニズムとジェンダーの違いが分かっていなかった私は、ずいぶんと理解が進みましたが、ジェンダー批評のほうが〈ジェンダー批評〉ではなく〈ゲイ批評〉と〈レズビアン批評〉であったため、肝心の〈ジェンダー批評〉とはなんなのかについて、授業内で少し掘り下げました。フェミニズムでは切り込むことのできなかった”性愛”というものをジェンダーでは取り扱うことができた。そのことによって見える世界も格段に変わりました。もちろんフェミニズム批評も、未だに存在する見えない性差別を暴くために重要な理論です。一方で、人間の性の在り方について問われるようになった現在の動きは、ジェンダー批評の成果でもあります。

まだ乗り越えられていない批評理論を知り、生きた学びをしているような感動を味わいました。うまく言い表せませんが笑

一点私が知りたいなと思ったのは、怪物がどうして自分を「男である」と自認したのかということです。当時は男女の二分に疑問などなかったでしょうから、男であることを認められないということは考えられていなかったでしょう。しかし、ジェンダー研究が進み、性自認の常識が変わりつつあるとき、怪物がなぜ男だと理解したのかを考えるのは面白いのではないかなぁと思いました。

 

4限では、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の冒頭を取り扱いました。フェミニズムの最大の功績は、生物学的性の上にある社会的な性規範を変えたことにあります。女性の表象の仕方を変えることで、法制度、女性の役割、地位などを変えることに成功しました。でも、それだけ。女性の表象を変えることは確かに大事ですが、性差については考えることができなかった。そのことを問題点として挙げています。女性とはなんなのかが曖昧であり、統一的な女の存在は結果的に無いと示され、フェミニズムの目標とせんことも結局は空洞化し、失敗してしまう……

という内容だったと理解しました。授業ではジェンダーを語る際、クリステヴァをよく例に上げます。「女」は存在しない、「女」というものは構造的に「男ではない」でしか説明できない ということ。逆もまた然り。たしかになぁと思うとともに、自分は今後自分の性をどのように表現したらいいのだろうという感想を持ちます。一般的女性としての風貌、自認をしていますが、本当にこのまま諸書類に「女」と書いてもよいのでしょうか。学べば学ぶほど世界が広がるとともに、変な悩みも広がるなぁとつくづく思います。

春学期第11回 3年ゼミ

今回の担当は増尾です。

6/27の第11回では
3限 廣野由美子著『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-』(中公新書)の第2部 4「脱構築批評」、5「精神分析批評」
4限 マルクス『経済学批判』「資本論1」
をとりあげました。

3限の担当は増尾。
今まで様々な主義を学んできましたが、脱構築 は主義ではなく二項対立を崩す手続きであるという話から始まりました。

そもそも、構造主義とは作家(作家性やしゃかいせいなど)を排除し、テクストだけを分析するというもの。
テクストだけがその物語の世界のすべてであるという考え方でした。
これに対して、脱構築主義はテクストの統一性を否定。

脱構築とはどのような方法で行うのか。
二項対立を崩せば良い!!

良く用いられるものですが、西洋東洋を例にすると、
西洋:東洋 は 知的:野蛮
という二項対立が表されたがち。
→西洋の野蛮性を、東洋の知的性を見出すことで二項対立を崩すことができる。
ということになります。

どちらが正しいかの決定が不可能(=決定不可能性)であると示す方法がとられます。

二項対立の解体をあえてさせることによって、予想のつかない展開、読者への驚きを増すことが出来るのだなぁと感じました!

ただ、脱構築もテクストに焦点をあてており、作家性や時代背景を意図的に解釈に持ち込まないということで、私の考えとは違うなぁ……と反論したくなったりしました笑

次に「精神分析批評」

フロイト的解釈
→作品の中の登場人物ではなく、作者自身に関心を向けている。作者の無意識が作品に反映されているという考え。
間テクスト性的解釈ができる。

ユング的解釈
→人間の無意識には民族や人類全体の記憶がある。
そのため文学作品には文明によって抑圧された人類全体の欲望が表れている。

神話批評
→時代・歴史をこえ、現在の作品に共通するものを見出すことで、人間精神の類似性を指摘。

それぞれの解釈が『フランケンシュタイン』に当てはめて例が出されており、授業準備のために読んでいるのが楽しかったです笑
自分で使えるかと言われると……。それぞれの理論がぐちゃぐちゃにこんがらがってしまっていてちゃんと整理しないと……と危機感を覚えました。

4限の担当は大下。
これがまた強者でした!!!!!
マルクス主義を学ぶべく頑張りました。がしかし、頭をフル回転させて、読み込み、理解しようという心意気虚しく惨敗でした。(大下はわかりませんが、私は惨敗です!)

大まかに言うと、
社会構成がAからBへ変わるのはなぜかというと、Aのままでは矛盾があるから。変化が起こるときには闘争なども多く起こる。
流れる歴史の中において、何か矛盾を見出すことができれば歴史の変わり目がわかる!
ということでした。

13回の3限でまたマルクス主義について学びます。
今回のことを元にちゃんと理解ができるように頑張ります!!
授業担当は私、ブログ担当も私。果たして、増尾はマルクス主義と仲良くなれるのか……!!!!
第13回のブログをお楽しみに……。

増尾

春学期第10回 3年ゼミ

こんにちは。今回の担当は大下です。
第10回目は増尾欠席により私一人のゼミ。こんなにも心細いことがあったでしょうか。先生と一対一の個人授業です。4限ではお世話になっている先輩方が4人も来てくださり、大変ありがたかったです。

ハプニングもあり、予定とは大きくずれ、『批評理論入門』から「ジャンル批評」「読者反応批評」「文体論的批評」の3つを行いました。3限で「ジャンル批評」と「文体論的批評」を先生と読み解き、4限で元のテクストと同じ内容の「読者反応批評」を議論しました。

と、いっても文体論的批評も3限内に終わらなかったので、4限に食い込んでいます。タイムキープごちゃごちゃでした。反省です。

「ジャンル批評」とは19世紀末頃から用いられるようになった分類の考え方。『フランケンシュタイン』にはロマン主義、ゴシック小説、リアリズム、サイエンス・フィクションの4つがあてはまると解釈され、紹介されています。話の焦点となったのは「文化批評用語辞典」に載っていたジャンルの一節から発展した話題。予習としてフェミニズムや現在のジェンダーに関する話を拝聴しました。疑問はすぐにぶつけ、じっくり解釈することができました。

続く「文体論的批評」は4限までのびたため、先輩と一緒に議論しました。ひっかかったのは「内的逸脱」と「外的逸脱」について。テクスト内に一定の基準が設けられており、そこから外れることを「内的逸脱」と表記しているが、では内的があるのなら「外的逸脱」もあるのだろうか、という内容。先輩方が大議論を繰り広げ、途中から口をはさめない状況に。けれども見事に議論が収束し、正しいであろう結論に達するところはとても鮮やかで見事でした。外的逸脱とはつまりテクスト外での逸脱を指し、作家や作品、ひいてはジャンルにおいて、それ自体の癖を基準と捉えることができるのではないか。ということになりました。(メモが正しければ)

さて、大議論のあと、残された時間は20分弱。大部分の議論が残されたままでした。超特急で話し合いたいところだけを掬い取って議論。残りは今度もともとの4限テクストの議論と一緒に行うことにしました。大きくは「修辞的な示し方」と「弁証法的な示し方」について、「読むということの怪物性」とはなにかの2点です。

まず、フィッシュの提案した文学の表現方法の2つ。「修辞的」な方では、作品は読者の知りうる情報を強化することに専念し、「弁証法的」では。読者に自分で真実を見つけるように挑みかけるように描かれているという内容です。読者の反応は後者に興味をもつとされていますが、私たちは前者でも、テクストの持つ社会性という点では他の時代において知的欲求を刺激され、挑発されるのではないだろうか、と考えました。

また、読むことの怪物性とは、作者によって押し付けられた読み手の人物像を押しのける力であると解釈し、作者の絶対的権力が失われ、読者によって解釈が変化するという「作者の死」という言葉が改めて浮かびました。

 

議事録は以上ですが、本来やる予定だった4限のテクスト、ヴォルフガング・イーザーの『行為としての読書』は、完全夏休み持ち越しとなりました。単位の出ない特別夏期指導。日程も未定。夏課題とのダブルパンチにおびえる3年生……。私たちの夏は豊かな楽園生活とは程遠いものになる予感がします。。

春学期第9回  3年ゼミ

今回の担当は増尾です。

6/13の第9回では
3限 廣野由美子著『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-』(中公新書)の15「結論」、第2部1「伝統的批評」13「透明な批評」
4限 ロラン・バルト著『物語の構造分析』
をとりあげました。

3限の担当は増尾。
「結論」物語の終わり方には二つある。
はっきりとした解決を持って終わる「閉じられた終わり」
結末について多様な解釈が可能な「開かれた終わり」
湊かなえ著『告白』は開かれた終わりだよね、小さい子が読むものは閉じられた終わりのものが多いよね などと読んだことのあるものを挙げて話し合いました。
ではなぜ小児向けの作品は閉じられた終わりが多いのか。
教育的な面から閉じられた終わりのほうが都合がよいのではないか。という答えにいたりました。

「伝統的批評」(=作家論)
印象主義的な論調で分析したり、教訓を作品から得ようとする「道徳的批評」
文学作品と作者の人生は切り離せないとする「伝記的批評」
の2つをみていきました。
作家論は作品を分析する時に使いやすいものであるが、それだけで物語を理解した気になってしまうのは危険だ。と先生から注意が。
あっぶない……。使おうとしてた……。と先生の助言のおかげで、これだけに頼ることはやめようと固く誓った増尾でした。

4限の担当は大下。
そして、今回は高校生に向けた大学の公開授業ということで、明治大学付属中野高校のO君が参加してくれました!!

作者の死 ということで、そもそも「作者」とは何であるのか、どのようにして「作者」がいなくなっていくのかといったことを読み解いていきました。
文学作品はとりわけ作者というものが見えやすいが、絵画などの他の芸術においてはどうなのだろうかという点について議論を発展させました。

私たち(主に私)が頭を抱えてうなっている中、O君が「〜〜ということもありますか?」、「〜〜いうことを他のところで聞いたのですが……」と積極的に意見をくれました!そこで出た話をさらに発展させ……といつも以上に濃密な議論になりました!!
O君ありがとうございました!
あと少し素敵な楽しい高校生をすごしてくださいね!いつかまたお会いできるのを楽しみにしております!!

だんだんと今まで得たものを踏まえて考えることができるようになってきました。
その理論の誕生した時代背景などの知識も積み重なってきた気がします。
たぶん……できてます!!いや……とりあえずもう1度整理しようかな……。

O君に良い刺激をもらい気を引き締めた増尾でした。

ブログ用写真2

増尾