第9回 7期生『村上さん本当にすんませんでした』

ついに1週間以上滞らせてしまいました、”徳村 the KING OF 滞り”です。いやー、先週は結構忙しくてー。外部のお笑いライブに出たり色々やってたらもう1週間経過していました。申し訳ないー。ちなみにライブではコントをやったのですが、ややウケでした。私ネタ書いてないので、あまりそこに関しては言及できないのですが、まあウケるところはめちゃくちゃウケて、ウケなかったところは空調の音が聞こえるくらいシーンとしてました。久々の舞台でしたが焦りました~!ネタを当日朝に貰ったので練習不足感は否めませんでしたが、できる限りは尽くしたんじゃないかなと思っています。3年生はお笑いもバンドもできる限り全力で取り組んでいきたいと思っているので、本当はブログを滞らせている場合ではないのですが。。。次回からは当日に書けるようにします!!!

さて、今回のゼミ前半はジャンル批評について。ジャンルには、形式上のカテゴリーに基づくものと、テーマや背景など内容上のカテゴリーに基づくものとがあり、このようなジャンルにまつわる諸問題を扱う批評をジャンル批評といいます。

例えば、カナダの原型批評家フライによると、文学作品は四季に関連する4つの原型的物語のグループ、喜劇(春)、ロマンス(夏)、悲劇(秋)、風刺(冬)のいずれかに分類されるとのこと。一方でフランスの構造主義批評家のトドロフは「ジャンルはつねに他の隣接ジャンルとの差異によって定義されるものである」とフライの恣意的な分類を批判します。実際、今でも支持されているのはトドロフの考え方です。トドロフはまた、ジャンルの存在を認めないのは、文学作品が既存の作品群と関係を持たないと主張することに等しいということも述べています。

文学には様々なジャンルがありますが、ある小説がどのジャンルに属するか議論するのもジャンル批評のテーマのひとつです。例えばフランケンシュタインは、ロマン主義小説としても読めるし、ゴシック小説としても読める。さらにはリアリズム小説としてもSF小説としても読むことができ、複数ジャンルにまたがって多角的な読みをすることができる作品となっています。

次に取り上げたのは、作品を自立した存在として捉えた形式主義批評に対して異議を唱えた読者反応批評でした。読者反応批評は、読者によって作品に対する反応の仕方が異なることに着目し、テクストが読者の心にどう働きかけるかという問題に焦点を置きます。従来、読者とは作者がテクストに埋め込んだものを受動的に受け取る者として捉えられていましたが、読者反応批評はこれを再定義し、テクストに活発に関わりテクストとの共同作業によって意味を生産する存在として「読者」を捉え直したのです。

しかしながら、読者反応批評はどんな読みも許容するわけではなく、作品によって想定された「含意された読者」を演じることで読者は作品を真に理解できるという考えがあることには注意が必要です。出鱈目な読みは許されません。

また、読者反応批評はテクスト中の空白に注目します。テクスト中の空白には、読者の活発な読みを引き出す機能があるからです。このように読者を刺激するような文学表現を「弁証法的な示し方」と言います。逆に、読者がすでに持っている意見を反映し、強化する方法を「修辞的な示し方」と言います。

こんな感じで3限の分は終わりました。正しくは、終わったような気がします。やはり1週間経つと記憶も曖昧になってきますね。。。反省しました。ハァイ。確か、その後のペアワークでは浦島太郎のジャンル批評をやりました。いろんな観点から浦島太郎を分類するのは骨の折れる作業でしたが、面白かったのは『浦島太郎』と『鶴の恩返し』の構造が似ている点でした。どちらも、困っている動物を助けたのちにその報酬として贅沢ができるが、約束を破ってしまったことによって不利益を被ってしまうという物語になっています。鶴と亀という縁起の良い動物の物語であることにも運命的なものを感じますね。

さて4限の方に移りましょう。4限ではヴォルフガング・イーザーの『行為としての読書』を読みこんでいきました。イーザー曰く、「テクストの言語記号および構造が、読者の理解行為、すなわち読者の意識へのテクストの転移を誘発することによって、その機能を果たすというところにある」ということで、これは小説は読者に読まれることで初めて成立するという考えなんですね。そして読者がどう理解するかっていうのはテクストにはコントロールできないということも指摘しています。つまり、小説を読むという行為は、作者と読者の想像力のゲームということなのです。ただ、テクストがすべてを明らかにしすぎたり、逆に難しすぎたり過度に混乱させたりすると読者はゲームから降りてしまうことには注意が必要なので、そこは作者の腕の見せ所というわけです。

さらにイーザーは、文学の世界を構成しているのが文どうしが結合した意味単位である相関体であり、読者は物語を読み進めながら相関体の中にある欠落部分を見つけていくということを述べました。その欠落は次の相関体への期待となり、予測を生み出すことになりますが、その期待は読み進めていくうちに現れる新たな相関体によって修正されたり裏切られたりします。つまり、相関体は未来の相関体に対する期待を生むとともに、過去の相関体に遡及して影響を与えているのです。読者は読書をしながら、そのテクストをリアルタイムで綜合していくことによって自分の意識に翻訳して転移させているのです。この作業はテクストによって指示されているのではなく、読者の領域に属しているとイーザーは述べています。個々の相関体において、どこに視点を置くか、どこに視点を置かないかというのは作者が目印を置いている場合もありますが、常に読者が作者の想定したように読んでくれるわけではないのです。

また、イーザーの面白いところは読者の読みが弁証法により高次のものに進化していくとしているところで、イーザーはその読むという行為中に生まれたものを「美的対象」と表現しました。イーザーのこの考えは当時の日本の教育にも歓迎的に導入されたらしいのですが、学生があまりにもアナーキーな読みをするということであまり長続きしなかったらしいです。まあ読者反応批評って本をわかる人にしか批評を認めてませんから、読書や批評の基礎を学ばせてからじゃないとそりゃ失敗するよなあと思いますが。。。

またイーザーの考えの問題点として挙げられるのは、弁証法的により高次の解釈を希求していくために常に解釈の更新・修正を迫られるために確定させることができないということ。確定していないということは、まだ存在していないことと同じになってしまうので、いつまで経っても批評が終わらないんですよね。また弁証法という発展思想的な考え方そのものも、第二次世界大戦の勃発によって批判されることになります。常に高め合って上を目指していこうぜ!という考えにも限界があるということですね。。。

さて、なんとか1週間前の記憶とメモを頼りに最低限のことをさらえたと思います。なんやかんやで執筆開始から3日経ちました。個人的には好きな回だったのでまだなんとか記憶がセーブされていて助かりました。やっぱりすぐ書いた方がいいですね、ブログって。でもゼミ終わった後ってめちゃくちゃ一気に疲れが押し寄せてくるんですよね。何もする気になれない。無気力になってしまう。あと一応の達成感もあるので、しばらく浸っていたいっていうのもありますよね。そこからすぐブログっていうのは、もうちょっと勘弁してくれよ。。。という気持ちになります。。。でもそれってつまり一週間のうち2日間ゼミのことしかやってないということになるんですよね。私の場合、火曜日全部使ってレジュメ用意していて、で、水曜日の午前中とかにブログ書いたりしてるので。いやーーーーー。これはーーーーー。まずいよーーーーーー。

まあでも大学に入って一番研究っぽいムズカシイことしてるのってこのゼミなんで。それは大きな意義あるよなって。ということで一応のフォローを入れておきます。

あと余談なんですけど、ヤフオクで買ったギター、実物見てみたら写真よりもだいぶ鮮やかな色で笑っちゃいました。久しぶりに草生やしました。「鮮やかすぎだろwww 舐めてんのかwww 今どき空でもそんな鮮やかじゃねえよwww」って。

いや彩度マイナス80くらいしてんだろコレ。たぶん返品します。返品はロックの基本なので。でも慣れると意外と可愛いかもなあと思ったりもします。

それではここいらでお暇させて頂きたく思います。あと村上さんゼミから2日も引っ張ってしまって本当にすいませんでした。許してください。いや本当にアレだけは勘弁してください。。。アレだけは本当に。。。お願いします。。。どうか。。。すいませんでした。。。ハイ。。。徳村でした。。。

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