第7回 7期生『メタフィクション的連絡先交換術のすすめ』

またまた更新が滞ってしまいました。【滞りの徳村】の通り名でおなじみの徳村です。今回の滞りに関しましては、モチベーションの問題と家のWiFiが使えない問題の両方の側面から言い訳をすることが可能ですが、まあそれは置いといて。。。

第7回のゼミがおよそ1週間前のことなので、少し記憶が曖昧になっているのですが頑張って思い出しながら復習のつもりで書いていこうと思います。本当は授業後すぐに書いた方がいいのですけどね。でもどうしても疲労で体が動かんのですよ。。。

まず前座では、私が自らの写真撮影スタイルを見直した話をさせていただきました。結構なんでもありなんですねこのコーナー。わたしって、とっても人見知りでシャイボーイなので、いつも人を撮るときには後ろから撮ったり隠し撮りに近いやり方で撮ったり、望遠レンズでステルス的に撮ったりすることが多くなります。このスタイルには被写体を風景の一部に見立てたり、被写体の自然な表情を映したりすることができるっていう狙いがあるのですが、個人的に一番大きい理由は「被写体とコミュニケーションを取らなくても良い」っていうことだったんですね。やっぱり、正面から人を撮るってこと、目線をカメラに向けさせるってことは、被写体とのコミュニケーションがあって初めて成立するわけですよ。で、そうやって被写体と一緒に作り上げた写真っていうのはなんていうか、強度があるんですよね。ディスコミュニケーション状態で撮った写真と比較すると、写真としてのパワーが違うわけです。まあどちらにも良さがあるんですけど、私に関してはこれまで被写体と向き合うことから逃げてきた節があるので、やっぱり、そこを変えていった方がいいなと思ったわけです。そんなことを思い立ったエピソードももちろんあるのですが、それは長くなるので割愛させていただきたく思います。

さて今回のテーマは前半が「間テクスト性」と「メタフィクション」、後半が「相互テクスト性」でした。ちなみに「間テクスト性」と「相互テクスト性」はだいたい同じ意味です。

「間テクスト性」というのは、「あらゆるテクストは他のテクストを吸収し変形したものである」というテクスト同士の関係性のことです。作品の中で作者が先行作品に言及したり、意識的にも無意識的にもそれについてほのめかしたりするケースがよくありますが、つまりそれのことです。これは広義には「小説と小説」だけではなく「小説と絵画」や「小説と映画」など他の芸術作品との関係も含みます。実際、『フランケンシュタイン』では先行する小説や絵画などから色々なモチーフを借用しているんです。音楽家の坂本龍一氏が「世界の99%の曲はパクリです。1%のオリジナリティーがあればいいんです」と言っていたとか、ジョンレノン氏が「ビートルズは盗作バンド」と言っていたとかそういう話がありますが、つまりめちゃくちゃ世界的に評価された曲でも、それより前に誰かが書いた曲を聴いて参考にしていたわけです。私が好きなバンドのART-SCHOOLなんてもうUSインディーバンドとかUKポストロックバンドからやりたい放題メロディー借りまくってますし、なんならそのまま使ってますから。歌詞も村上春樹とか中原中也からフレーズとかモチーフとかもらってますし。それでも私はART-SCHOOLが大好きですし良い曲だと思いますし、ART-SCHOOLにしかできない曲だと思っています。それは、どれだけ数々のテクストを吸収して変形させて生み出された作品であっても、それらのテクストが収斂する読者(リスナー)という地点において必ず1%のオリジナリティーが付与されるからなのです。『セメイオチケ』にてジュリア・クリステヴァが「文学の言葉はひとつの点(固定した意味)ではなくて、いくつものテクストの表面の交錯、いくつもの文章が、すなわち作家、受け手(すなわち登場人物)、当時のあるいは先行する文化のコンテクストが交わす対話となる」、また「作家が歴史に参加するただひとつの方法は、読むことー書くことをとおして、いいかえれば意味構造をもうひとつ別の意味構造に連結させ、あるいは対立させて作り上げてゆくことをとおして、この抽象化を侵犯するということになる」などと述べているのは、ART-SCHOOLのように自分の中で交錯した先行するテクストを自分なりに紡ぎ、それだけでなくオリジナリティーの雫を一滴垂らすことによってただの引用や編集に留まることなく新しいテクストを作り上げることを指しているのかもしれないと思いました。

次にメタフィクションですが、これは簡単に言うとフィクション小説を読んでいる読者に、作中でフィクションの構造を見せちゃうということです。例えば、小説内に作者が登場して語りだしたり、作中の登場人物が自分のことを作品の登場人物であると自覚していたりすることがこれに当たります。かつて毎月コロコロコミックを読んでいたであろう皆さんならすぐに思いつくかもしれませんが、「でんじゃらすじ~さん」にはこのような反則スレスレな手法がよく使われていました。よく曽山先生が本人役で登場したりしてましたし、登場して三コマで死んでしまうキャラクターである「三子間弟下ヌ」の存在自体、漫画であることが前提とされています。ジャンプだと「銀魂」がメタフィクションの手法を良くとります。現実世界が舞台の作品ではないのですが、実際の時事ネタをふんだんに盛り込んだり、他作品のパクリ、パロディーは常套手段という実に凶悪な漫画でした。しかしそれに終始することなくシリアスパートや人情噺も盛り込まれているのでそのバランスが癖になるんですよねえ。ここで「なぜ作家はメタフィクションを書くのか」という話題になった(と思う)のですが、自意識と承認欲求の話にまで発展したのが面白かったですね。私が小学生時代に無茶やってた話が暴露されるなどしました。メタフィクションを書く理由は~。なんでしょうか。簡単にアイロニーが起きて面白いからでしょうか。最初に銀魂観たときなんて私呼吸できなくなるくらい笑ってましたからね。絵本とか漫画とかを経て、普通の物語がだいたいどんなもんかわかってきた小学生の常識がパロディのメタフィクションにぶん殴られたのは鮮烈でした。あとは照れ隠しの線もありそうです。私もたまに照れ隠しでメタすることあります。例えば連絡先交換したい人がいるとき、「どうやら巷の陽キャラ大学生は、仲良くなりたい人と連絡先を交換するときに、その人の写真を撮ってあげたり一緒に写真を撮るなどして、その写真を共有するという口実のもと自然な流れで連絡先を交換しているらしいですよ。いやーすごいですよね。その手があったかというか。よく考えたな~って感じですよねホント。…で、今から私もその方法であなたと連絡先を交換したいと画策しているんですけど、それについてどう思われますか?」といった感じで。これなんか良くないですか?ひねくれものが健気に頑張ってる感じが心をくすぐりませんか?ちょっと洒落てませんか?いや~、考えついたはいいもののまだ試してはいないんですよね~。…えっ?回りくどくて気持ち悪いって?う~ん。言われてみれば確かに。引かれたら嫌なんでやめときましょうか。

そんなこんなでなんとかブログを書くことができました。ありがちょす。次回はもうちょっと早く書きたいです。反省~。わたしは今からエヴァの薄い本を貰いに映画館まで行ってきますー。みなさんごきげんよう!

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