こんにちは。5月19日前座とブログ担当の村上菜々子です。前座では漫画『女の園の星』を紹介しました。すっごく人気で近くの本屋さんでも最新の2巻が売り切れていました。わたしはシュールな、そして日常のささいな出来事を切り取ったようなマンガが好きなのですが、これはまさにそんな感じで現実と虚構のバランスが絶妙です。主人公の星先生のキャラクターが特にお気に入りです。
キャラクターといえば、今回の講義のテーマの1つです。全体ではテーマは3つあります。E•M・フォースターによると、登場人物は平板な人物と立体的な人物に分けられます。わたしの大好きな漫画名探偵コナンの作者青山剛昌先生は、コナンについて、「コナンは成長しません、成長物語ではないので」との言葉を残していますが、このように、キャラクターがどんな場面でも同じ人物で安定している場合、このキャラクターは平板だと言えます。逆に物語の中の経験を通して心情の変化などがあり、行動や性格が安定しない場合、それは立体的な人物と言えます。
2つ目はアイロニーについてです。アイロニーには三つ種類がありますが、一番大事なのは劇的アイロニーというもので、登場人物が把握していないことを観客にはほのめかすことでドキドキやハラハラを生む効果があります。徳村さんはこれをコントにも展開させて考えていました。コントのネタは普通の物語ではなく、人を笑わせるために書かれているので、小説技法を強調させたものも多いのかもしれません。そういう視点で見てみるともっとおもしろいです。
3つ目は魔法昔話の構造についてです。古今東西どんな魔法物語も、プロップの提唱した31の要素のうちどれかで成り立っているという研究があります。物語というのはある程度パターン化されますが、それがよく分かる研究です。これに関連して、若い頃は感性が敏感だから芸術作品によく触れなさいと言われていますが、物語に関して言えば、大人より子どもの方が物語に感動して涙を流すのは、単に心が綺麗なだけではなく、使い回された物語の構造にいままで出会ったことがないことも要因なのではないかと考えました。
さて、今回大きく3つのテーマをまとめてきましたが、いかがでしたでしょうか。番外編として、ここから環境が人格を形成するのか、人格が運命を決めるのかという難しい問いを一緒に考えてみましょう。
小説技法「意識の流れ」というのは物語の筋とは関係がなく、人間が普段取り止めもなく考えている沢山のこと、例えば過去の後悔や今日しなければならないこと、将来への希望や、または不安などを小説に書くことです。私たちと同じように、小説の登場人物達もまた、物語の筋に関わることだけを考えている訳ではなく、あらゆる雑念や思想を平行して持っています。それらは時に矛盾することもあります。それらを敢えて書くことで登場人物の人間味は増します。しかしここで新たな疑問があります。これらの意識は登場人物の性格を表すのかということです。ここで私はマザーテレサのある言葉を思い浮かべました。
「思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。」
というものがあります。意識を思考に言い換えると、思考というのは性格に繋がり、性格は運命につながるのです。自らの運命は自分自身が普段している思考や使っている言葉に導かれているという考え方ですね。しかしこれだけでは「環境によって人格が変わる」のか、「変えることのできない人格が運命を変える」のかという問いの答えにはなりません。人格を性格に置き換えてみても、自らの思考や言葉、習慣は人格に大きな影響を与えることは言えますが、環境が人格を変えるのかどうかについては書かれていないからです。ここで引用するのはヴィクトール・フランクルの名著『夜と霧』の中の一節。
「人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。」
ここから言えることは、人間は自分ではどうすることもできないこと、例えば親や国籍や環境などによって変えられてしまうこと、制限されてしまうことはある、けれど最後の最後、そこから何をどう感じ、どう生きるかを決めるのは自分自身なのだということです。強制収容所というなにもかも、人間の尊厳すら奪われた場所でも人間の自由意志だけは奪えなかった。人生が終わる最後まで生きる意味や価値は普遍的にあるのではなく、自分自身の心や行動が作るものだということです。
本講義の教科書『フランケンシュタイン』には怪物がでてきます。怪物は自らの呪われた運命を嘆き、それによって人格が変わり、虐殺を繰り返します。しかしこれは本当に環境が人格を変えたと言えるのでしょうか。たしかにそういう見方をすることもできます。そう考えるほうが楽です。自分が悪いことをするのは自分を受け入れてくれない周りのせいだと信じれば、それを盾になにをしても許されると思えるからです。しかしそうではない見方もあります。周りの人はたしかに怪物を受け入れなかった、しかしそれは周りの人が彼らの行動を彼ら自身が決めただけ。それに傷つき怒った怪物が虐殺したのは怪物が決めて自分でしたこと。しないことも選択できた。結局自分の在り方を自分で決めているのです。しかし怪物はそれを環境のせいにしている。自分の人生の意味なんて、行動なんて自分で決めるしかないのに、怪物はその責任をとらなかった。
怪物のような考え方は楽だから、本当に自分が辛いときにはそう考えてもいい。でもいつも覚えておきたい。自分の心の在り方、環境の捉え方は常に自分が決めているということを。人生をどう生きるかは最期まで自分が決めるということを。