第三回 7期生ブログ 『にっくきプルーストVS死ぬ気で生き返りながら生きるわたし』

 ハロー マイネームイズ シズカクドウ ナイストューミーチュー

 嘘です。徳村です。先日の2億4千万のものまねメドレーGPめちゃくちゃおもしろかったですね。冒頭のミラクルひかるによる『工藤静香の自己紹介』モノマネは鉄板で、今大会でも爆笑必至でしたが、個人的に特に笑ったのはゆうぞうの加山雄三モノマネと、山本高広の『麻雀をする高橋克典』ですね。高橋克典本人の声自体は正直あまり記憶にないのですが、皆の中にある潜在的な高橋克典のイメージを呼び起こさせるような声だったと思います。元ネタがあまりわからないのに笑ってしまうという『細かすぎて~』の笑いを彷彿とさせるような大傑作でした。あと相変わらず渡部篤郎のモノマネでも必ず笑ってしまいます。何回見ても面白いですからねアレ。しかも渡部篤郎本人が「そんなセリフ言ったことがない」と証言しているので、完全に山本高広の創作っていうのもスゴイですよね。果たしてモノマネとはなんぞや???とその定義が脅かされるほどの芸当だと思いました。

 さて、爆笑したところで本題に入ります。今回なんてムズすぎて笑ってないとやってられないですからね。第三回の講義テーマは『提示と叙述』、そして『時間』でした。

 まずは【提示】と【叙述】についてまとめてみましょう。提示とは、語り手が出来事や登場人物について語る際、語り手が介入せずに黙ってあるがまま示す手法のことを指します。登場人物の会話がそのまま記録されている場合がこれに当たりますね。一方の叙述は、語り手が前面へ出てきて、出来事や状況、人物の言動や心理などについて解説する手法のこと。語り手が出来事をそのまま語るのではなく、要約などをして解説している場合には、叙述の手法が用いられていると言えるでしょう。この両者には優劣があるというわけではなく、小説は【提示と叙述】を適宜組み合わせることで成り立っているものなのです。

 そして厄介なのが『時間』なのですが、厄介なだけに残念ながら結構な文章量になります。。。皆さんは、小説にはつねに【時間】という要素がつきまとう、ということをなんとなくわかると思うのですが、ここでまず重要なのは【アナクロニー】という概念です。アナクロニーとは、時系列で語られる【ストーリー】と、因果関係で語られる【プロット】とで、出来事の順序が合致しない場合のことを指します。プロットではしばしばストーリーの順番が組み替えられるので、プロットが用いられている場合にはアナクロニーが生じている場合が多いと思われます。アナクロニーは基本的に2つに分類され、ひとつは出来事の継起を語っている途中で過去の出来事や場面に移行する方法である【後説法(フラッシュバック)】で、もうひとつはまだ生じていない出来事を予知的に示す方法である【先説法(フラッシュフォワード)】。後説法の例としては、登場人物の過去が語られたりする「回想シーン」が、先説法の例としては、未来に起こることを仄めかす「伏線」が挙げられそうです。

 そして、物語が進む速度にも様々な形式があります。主なものとして挙げられるのは、ある期間を省略して一気に飛び越える【省略法】、ある期間に起こった出来事を数段落や数ページで要約してしまう【要約法】、物語が【提示】され、物語内容と物語言説の時間の速度が等しくなる【情景法】、そして語り手が物語の流れを中断させ、物語のその時点では登場人物が誰も知らない情景や情報を示す【休止法】の4種類です。省略法と要約法はよく似ていて区別が難しいのですが、小説内で『それから2年が経過したー』のような表現があったとき、その2年間について数行の説明があるようだったら時間の速度が速くなっているので要約法と考えられ、2年間について説明がなく単に2年間が飛ばされただけだったら物語に空白が生まれているので省略法、という解釈で私は落ち着きました。村上さんにはこの『省略法と要約法の違い』について申し訳ないほど説明させてしまいました。この場を借りて謝罪の意を表明したく存じます。ごめす。

 さて、今回の講義で我々を苦しめたのはテキストの筆者であるジュネットの難解な文章だけではなく、ジュネットが紹介したプルーストという作家の特殊性でもありました。何が特殊化と言うと、プルーストは物語言説における先述の4つのテンポをすべて変質させて用いているのです。特に彼は休止法をこねくり回しており、ジュネット曰く「プルーストの作品の中に休止法は存在しない」そうです。なぜかというと、休止法はふつう静的で客観的なもので、そこに登場人物の主観的な視点が入り込むことはないのですが、プルースト作品の語り手は、休止法的に説明する際にも登場人物の視点が介入され、動的に主観的なことも語ってしまうからなんです。わかりやすくかみ砕いて言うと、ある男が窓の外の風景を眺めている、みたいなシーンを描くとき、普通の作家の語り手は『窓の外には草原が広がっていて、子供たちが遊びまわっている』くらいの表現しかしないものですが、プルーストの語り手は『窓の外には草原が広がってらあ!あの子供たちと一緒に駆け回りたいぜ!』くらいのテンションで表現しちゃうんです。「子供と一緒に駆け回りたい」というのはその男の心情であって、普通の休止法では絶対に述べられることはありません。

 ではなぜプルーストはそのように休止法を改変したのか。それはプルーストが「真に客観的な描写は存在しない」という考えを持っていたことに起因します。プルーストは、人間が情景を描写するとき、必ず個人的な体験や知覚に基づいた描写を行っているということに気づきます。確かに、10人が同じ花を見たとしても、その10人は全員が異なった経験や考えを鼻に対して持っているもので、それによって花をどう描写するかも変わってくることは想像に難くないと思います。プルーストはその考えから、「登場人物の視点から切り離されて存在する景色は存在しない」という結論に至り、作品においても休止法による客観的な描写は行わず、必ず登場人物の視点から主観的に世界を描写するようになったのです。

 私は、はじめプルーストが何を言っているのか皆目見当もつかなかったのですが、村上さんや内藤先生の考えを聞いて理解を深めることで、彼の言っていることにめちゃくちゃ共感することができました。私もこの世の中に客観的な描写とか客観的な評価とかって存在しないと思いますし、何ならこの今目の前に見えている世界も私の主観でしかないと思っています。だってそれはただ私の目が、耳が、鼻が、皮膚が、脳がそう判断しているだけに過ぎないので。もしかしたら、他の生物にはこの世界が全く違って見えているかもしれないし、宇宙人が私たちに見える物質が見えなくて、私たちに見えない物質が見えた場合、宇宙人はこの地球のあらゆるものの形や色や感触を私たちと全く違うように認識するわけですから。だから私はSFとかで宇宙人が「地球って青いよね~」とか言ってるのを見ると、「この宇宙人ってこの見た目で目の作りは人間と同じなんかい!」とツッコミを入れたくなります。もっと言うと、時々、この世界が実際に存在してるかどうかも疑うことがあります。我々の見ている世界はすべてプログラムされた仮想現実である、みたいな。所謂マトリックスの世界観です。これ割とあり得ると思うんです。結局脳にそういう信号を送っちゃえばそういうことになっちゃいそうですし。だって今だって目の前に見えてる景色は目が脳に「そう見える信号」を送っているからそう見えてるだけですし。でも、そぅ考ぇると、この世に確実に存在してぃるのゎ私だけ。。。我考ぇる故に我有り。。。とゆーコトゎ。私の意思以外ゎ全部フェイク。。。まがぃもの。。。もぅマヂ唯我論的。。。サルトルに訊こ。。。

「他我が存在することは、自負や恥じらいの感情でわかるだろう!」

 というわけで、日頃どんなにへんちくりんなことを考えていても、山本高広のモノマネで大爆笑するし、言語表現論で課題が褒められたら嬉しいし、ゼミは毎週水曜日やってくるし、授業のテキストはどんどん長くなっていくし、それらを死にながら、あるいは生き返りながら、あるいは死ぬ気で生き返りながら、やっぱり生きていくわけです私は。関係ない話が思いがけず長くなってしまいました。みなさん良い週末を。私の分まで。

 

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