第2回 6期生ブログ「仁義なき戦い」

今回から本格的に卒論に向けての個人発表が始まりました。私は『仁義なき戦い』を題材にし、様々な議論をしました。

それぞれの意見の違いや感じ方の違いを共有することは、映画を観るという行為の醍醐味であると思っています。しかし、私は残念ながら語り合う人がそんなにいないので、このような場で議論することができたのはとても良い経験になりました。そして一人では見る気にならないだろう(?)『仁義なき戦い』をみなさんに観ていただけたのは、よかったです。今は古い映画にも簡単にアクセスできるので、積極的に観ていただきたいですね。

以下、私が以前書いた『仁義なき戦い』シリーズの批評文になります。この機会に載せます。内容は議論で私が話したこととそこまで変わっていません。

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「極道っちゅうもんは、死を覚悟しなければいいけないのだよ!」

そんなセリフはないものの、でも、そういうことなんだろう。言うまでもない共通認識なんだろう。死と、刑務所は、極道のつきものかもしれない。このシリーズを通じて多くのものが血を流し、多くのものが刑務所に放り込まれた。それが極道なのだからしょうがないね、の視点もありつつも、結局は…結局戻ってくるのは、死の匂いだった。死んでも守りたいものはあるのか?無駄な死と呼びたくない気持ちを抑えてまでも、無駄だと思ってしまう死があまりにも多くないか?広能は最終的に、死んでまでも行う組の増殖に、懐疑的になってしまったのだ。そのことを決して口には出さないし、体現はしない。彼は身を引くだけだ。

このシリーズはどの話も最終的には若者の死を描いていることからも、制作人の意図的なメッセージが伝わってくる。広島という死の記憶がこびりついている場所を舞台としながら、さらに上乗せされていく多くの死に、それを引き起こしてしまう制御の効かない組という生き物に、懐疑的な目を向けていく。組員の駆け引きは非常に人間味があふれ、広能の筋の通った力強さ、感情豊かにぶつかりながらの生き方は、このシリーズの唯一無二の答えを提示していた。広能に寄り添うばかりで、広能の弱さが見えてこないところがまた映画のずるいとことではあるが。広能は死に対して人一倍敏感だったのだと思う。特に部下たちの死に。殺した本人でさえ責任を取ることのできない、組という生き物が引き起こした死に、彼はやり場のない怒りを持つ。その怒りは、結局は復讐という形をとってしまう場合も多々あったが、抱え込んで生きていく道徳の教科書ではないのだから、当然だと言ってもいいだろう。しかし、他のヤクザたちには欠けているような、広能の死を嗅ぎ分ける繊細な心遣いに、観客はひかれたのだろう。

物語の最後は、常に原爆ドームが象徴的に使われる。弱肉強食の暴力は、押さえ込んでも時代が経ても、形を変えて続いていく。これは今も言えるだろう。物理的な暴力ではない様々な暴力も多々溢れている。そんな中で発生してしまう死に、広能のような繊細さを持って、深く傷つき、絶望する必要があるのだと思う。たとえそれを防げないとしても、固有名詞の死に、自分一人で接すること。原爆ドームという非常に匿名的で象徴的な存在をまえに、広能は一人ひとりの死を嘆くのだ。顔にも言葉にも出さずに。

宮本

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