『ハビトゥスを乗り越えることはできるか!』
すっかりブルデュー最終回を迎えて私は、「できなそう!でも…!」というような無理やりな言い訳っぽい言葉がどんどんできてしまいますね。
開き直ってもう「ハビトゥスを消すことはできない」と言ってしまったらどうだろうか。でもその代わりにもう一つ、「ハビトゥスは変えることができる」と、希望の言葉を信じていたい。
「構造というのは常に変わるもので、現在進行形の動的な存在だ」と、私の尊敬する先生がある授業の中で何度も仰っていたのを、ディスタンクシオン を読みながら何度も何度も思い出した。現実は変わっていく。それに応じて知らず知らず自分も変わっていく。私が今このような振る舞い(ハビトゥス)をしていても、一週間後の、一年後の、十年後の私も同じハビトゥスをしていると言えるだろうか?確証できるだろうか?
社会で生きるために、様々な他者と関わる。その中で、また新しい出会いが生み出され、ハビトゥスは少しずつ動いていくような気がする。環境が人を変えていく。出会いが人を動かしていく。私はそう思うことで、少しは楽になったような気がしたのだ。そして、それぞれが変化していくことは、世の多様性を作り出していく役割すら果たしてしまうだろう。
構造主義はよく批判されることもあるが、発祥は、始まりは、世界大戦からの反省なのである。
「レヴィ=ストロースの人類学もフーコーの社会史もラカンの精神分析もバルトの記号論もアルチュセールのイデオロギー批判も、「私」を透明で中立的な観想の主体として不当前提することへのきびしい節度を共有している」(橋爪大三郎『構造主義とは何か』より)
中立的かつ絶対的な主体への疑い。ブルデューも、主体を持った「個人」に疑いの目を向け、相対的な視点で人間の振る舞いを観察、考察した結果、このような大著が完成したのだろう。そして彼の冷めた分析はこのような構造主義の前提を受け継ぐものであったのだ。「私」は中立ではない。だから、「私」は様々な階級・集団に属し、それに応じた行動を取る。「私」は透明になることはできない。自分を絶対視することもできない。だから、「私」は人との関わりの中でハビトゥスを身につけ、変化させていく。
私のハビトゥスはいつでも変わる可能性があるのだ。そのことに安堵する思いと同時に、いや「変わって欲しくない!」と倒錯した思いも感じてしまう。まだまだ、ハビトゥスをめぐる問いは続いていくのだろう。人生はまだ長そうなので、引き続き頭を悩ませていきたい。