久々の更新となってしまい、申し訳ございません。最近自炊が少しだけ出来るようになって調子に乗っている川上です。こういう時にミスは起こるんです…。
今回は秋学期第3回の講義内容についてです。
春学期に学習した「精神分析批評」の理解を深めるということで、キース・ヴィンセント『夏目漱石『こころ』におけるセクシュアリティと語り』を用いて議論しました。今回の論文では、『こころ』をセクシュアリティという観点で分析しています。
作中に登場する青年と先生の関係が同性愛的であるという議論は、これまでもありました。あるいは『こころ』を、同性愛に対する異性愛の勝利の物語として捉える解釈も存在します。同性愛とは、未熟な人物の一時の「倒錯」であり、やがて異性愛に取って代わられるとする理論は、まさにフロイト的なものです。
論文では、『こころ』とは、セクシュアリティの理論化を巡って異なる方法が対峙する様を描き出していると主張します。つまり、セクシュアリティをここで規定しようとするのではなく、むしろ捉えようとする言説を概観可能にし、その有効性を失わせようとします。その根拠を、筆者は次の2つに求めます。
・『こころ』の未完性
・青年(私)の語り
『こころ』は「先生の遺書」以降の描写が存在しません。青年が、先生の自殺を知った後、どういう人生を送るかについての決定的な根拠がなく、その想像は読者に委ねられます。
また、『こころ』は青年(私)によって語られる物語です。語る青年(私)は、先生の自殺を知った後の青年(私)ですね。「同性愛的人生」の果てに自殺してしまった先生を、青年(私)はどう考えたのでしょうか。「先生は同性愛的で潔癖だ」「自分は異性愛者として成熟した」。概ねこのような語りで展開されますが、重要なのは、あくまでそれは青年(私)によって小出しにされた情報に過ぎないということです。
「本当は今の自分も同性愛的な部分があるが、世間的には異性愛者が認められているから、そういう風に演じておくか(汗」
と考え、語っている可能性もあります。つまり、ここでも、青年のセクシュアリティを決定する根拠はないということになります。
『こころ』は、非常に「誤読」に寛容な小説であり、だからこそ面白いのだと思いました。『こころ』がどういう小説であるかよりも、私たちがそれをどう捉えているかの方が重要なのかもしれませんね。