3年ゼミ 秋学期第1回

こんにちは。満員電車に乗っていたのですが、目の前にいた見知らぬ方が猛烈な勢いでLINEの友だちを削除しているの目撃してしまい、車内で天を仰ぎました。というわけで今回のブログ担当は川上です!

秋学期第1回の講義ついてですが、

春学期に学習した「ポストコロニアル批評」の理解を深めるということで、吉田香織『アニメーションにおける他者表象―オリエンタリズムの観点から観たディズニーと宮崎駿の世界ー』を用いて議論しました。この論文中で取り上げられるデイズニー映画『ムーラン』と宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』についてですが、こちらはゼミ生が各自鑑賞しました。

◯アニメーションについて
アニメーションや、キャラクタービシネスなどが複合して作られたファンタジーにおいて、製作者は、自分の、あるいは視聴者の欲望をかなり色濃く投影することが可能です。このように思想が強く反映されるアニメは、集団アイデンティティー形成に大きな影響を及ぼします。また、私達がアニメーションをみることで、それと普段の自分の生活との差異を楽しんだり、自分の在り方を見つめ直したりするように、「自己」「他者」概念をも構築します。社会に存在する偏狭的なイメージを覆すこともあれば、さらに強化してしまうこともあるそうです。アニメーションを、単なる子供向けの娯楽と捉えてしまうと、見逃してしまうことが多そうですね。

◯『ムーラン』について
ディズニー・アニメーションは、1998年に初めて東洋がモチーフの作品を制作しました。それが『ムーラン』です。アメリカにおいては、この作品は反オリエンタリズム的アジア描写の作品と評されていましたが、そうとは思えない描写がいくつかあります。アジアの描写はされているものの、それはあくまで西洋の視点から描かれたものであり、つまり、あくまで西洋人に親和性があるレヴェルでのアジア描写に留まっているということです。この作品は、東洋と西洋の対立(支配)構造から脱却できていないのではないか、という意見が挙げられました。

◯『千と千尋の神隠し』について
論文では、『ムーラン』と比較して、『千と千尋の神隠し』は、世界観の相対性と複数性を通しながら他者同士の共存を描いているため、西洋/東洋、自己/他者といったような二分法が通じないと述べています。

また、二項対立と力関係に関連して、主体/客体という観点で注目されるのが、「視線」です。見る/見られるという関係性において、見られる側は、ただ一方的に見る側に見られるのであり、力関係の優劣がほぼ決定しています。映画ならば、私達観客は見る側であり、映画の登場人物たちは見られる側ですね。しかし、『千と千尋の神隠し』では、あらゆる場面で、観客を見つめるような「視線」(目が描かれた看板・襖・小包)が登場し、観客達は見られる側にもなり得て、主体/客体の境界があいまいになるとのことです。

ゼミ生からは、『ムーラン』と比較して、『千と千尋の神隠し』は二分法から脱却しているように感じるが、十分ではないのではないかという意見があがりました。例えば「視線」問題に関しては、映画を見ていて、自分が見られる側に立つ感覚は覚えなかったし、「視線」はむしろ私達にではなく、千尋(主人公)に向けられているように感じたとのことです。もしそうであれば、千尋は相変わらず、一方的に視線に晒される弱い立場のままであり、力関係は覆されるどころか、強化されていることになります。

論文では、アニメを欲望のメディアと表現しています。人々の、普段は表に出ないような欲望が表出する場がアニメだと考えると、アニメをみるときの心持ちが変わるかもしれません。

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