4年ゼミ 第9回『地獄の黙示録』

こんばんは、大下です。今回は『Film Analysis 映画分析入門』から第14章「政治的批評」を取り扱いました。
この本自体、日本社会に浸っていればあまり鋭く聞かれない「右か、左か」の前提に沿って話をしているらしく、特にこの章は露骨にそれが表れている部分でした。私は公民の授業でリベラルがなんだ、保守がなんだに苦しめられた経験があり、だいぶ大人になったいまでも映画を見てまとめるのに苦労しました。

ブログ第9回『地獄の黙示録』

昨年度の先輩方とは違い、私たちは前年にコンラッドの『闇の奥』を読了しており、話の展開は視聴前から理解していました。また、『闇の奥』を学習する際参考にした田尻芳樹さんの論文も思い出しながら議論しました。田尻さんの論文では、マーロウが最後カーツと出会い、彼の死を見届けることで空虚に出会い、ジャングルを旅して得るものは自己同一性の崩壊とそれによる自己認識の獲得、空虚な中心への旅の物語が、脱構築を先駆的に試みている、とのことが論じられていました。今回の論文ではそうした脱構築的な解釈は一切なく、「右か、左か」「可か、不可か」の二択で議論が展開しているように感じました。二人とも「そうじゃない」と粘り、「右か左、どちらだと思いますか」という先生の問いかけにも「どちらでもありません」と生意気に結論付けました。

この批評は映画作品が一つの政治扇動に利用されているという発想からきています。マスメディアを専攻する学生が多い学部であるゆえに、こうした批評には真摯に向き合いたいですね。たしかに当時のアメリカとしては保守擁護の必要性があり、見方によっては保守的に見えるような描き方があったのかもしれません。けれども、私たちには原作の意図を完全になし崩しにし、見え透いた保守への扇動をしていたようには見えませんでした。人々の争いは右だ左だと言い合っているばかりでは解決しません。別の道を導き出すのも一つの手ではないかと私は思います。まあお金が解決させてくれないんでしょうけど。

(文:大下)

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