3 年ゼミ 第12回

こんにちは。暑い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。
皆さんは日焼け対策はしていますか? 私は日焼け止めはもちろんのこと、特に夏期休暇中は絶対に外へ出ないことで日焼けを防止しています。しかし今年は夏合宿がありますので日焼け間違いなしかもしれません……できれば室内で快適に過ごしたい……。
ということで担当は川田です。

今回は3限では廣野由美子『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)の「フェミニズム批評」「ジェンダー批評」、4限ではマルクスの代表作である『経済学批判』『資本論』について学習しました。

3限で取り扱った「フェミニズム批評」「ジェンダー批評」は前回の内容もふまえて議論を進めました。
おおまかに振り返っておくと、フェミニズム批評は当初、以前より根強く残っていた男性的抑圧から女性を解放することを目標としていました。しかしここで主体とされる「女性」というものがかなり限定的で排他的なものであることが批判されました。また、そもそも解放を目指すのに「女性」という枠組み自体が必要なのかという指摘もなされました。こうして「女性」という主体が揺らぎ始めたとき、バトラーは男性と女性という二分化を脱構築しました。それが、セックスすらもジェンダー的に決められたものである、ということでした。詳しくは前回の記事を参照してください。
このようにフェミニズム批評はその根底からコテンパンにやられてしまったわけですが、ではフェミニズム批評が残したものとはなんだったのでしょうか。それはおそらく、女が差別されているという構造とそれを露見させる役割ではないでしょうか。たとえば女性専用車両はフェミニズム批評を基に施策された典型的な例だといえそうです。

フェミニズム批評の後に発展したのがジェンダー批評です。廣野さんの著書ではゲイ批評、レズビアン批評、クイア理論が挙げられていますが、批評理論についてそれほど踏み入った説明がなされていません。授業内では批評理論というよりも、その対象となっているLGBTやSOGI、クイア、同性愛などについて、多岐にわたって議論をしつつ理解を深めていきました。
近代以前の同性愛は、個人のアイデンティティというよりも、身分によって嗜みとしてある程度受け止められていました。その後国家が成立し国民が生まれ、さらなる国土拡張のために戦力が必要になりました。この流れで人口増加が目指され、国や社会のための「生殖」が重要視されるようになりました。現代のように異性愛が主流となったのは歴史的に見てごく最近だといえます。そして異性愛が個人のアイデンティティに帰属するようになることで、同性愛的志向を持つ人々が排他されるようになってしまいました。
はたして人間というものは子孫を残さなければならないのか。それは社会的に作られた欲望であって本来の自分の欲望は別にあるのではないか。今一度自分で区別してみる必要がありそうです。

4限ではマルクス主義批評の出発点であるマルクスの著作のごく一部を取り扱いました。実際に読んだのは『経済学批判』の序文のみになりました。
マルクスは法律や政治を上層部、経済や生産体制を下層部と考え、経済や生産体制が変化することで法律や政治もそれに伴い変わっていくと述べました。たとえば歴史というものは、権力者による倒幕と新体制の成立を繰り返して成立しているとみなされがちです。しかしマルクスはその流れの根底には経済活動における変化があり、それが表出して政治上の変化が生まれると考えました。
彼の批判は労働者の解放を目指したものであったため、経済があたかも主体性を持つような述べ方をしています。議論の中で、そもそも経済は人間の活動によって生まれているものではないかという指摘もありました。今回取り扱った範囲ではまだ解明できない点も多いですが、マルクスに対するさらなる批評につなげることもできそうです。

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