こんにちは。今回の担当は大下です。
第12回は性に関する批評体系について。3限では批評理論入門から「フェミニズム批評」、「ジェンダー批評」を取り扱いました。
フェミニズムとは1970年代以降に登場した、性差別を暴く批評のことで、これまで男性作家によって書かれていた作品を女性の視点から見直し、男性による女性への抑圧がいかに反映されているかを指摘します。さらに、男性文化によって無視されてきた女性作家の作品を発掘したり、女性の書いた作品を再評価する動きもあります。
メアリ―・シェリーは『フランケンシュタイン』を出版する際、自分の名は伏せていました。メアリーと同時代の女性作家も男性名や中性的な名前を使用していたことから、当時作家が女性であることは批判を招く恐れがあったことが窺えます。また、パーシーの作品介入を黙って受け入れている点、夫の死後、その作品を手直ししている点から、この時代夫が優越権をもつことが当たり前であったことも考察できます。
『フランケンシュタイン』において、登場する女性は直接自らの口で語ることをしません。また、男の登場人物の多くは故郷を離れて旅や仕事をしますが、女性はほとんど家(あるいは土地)から出ることがありません。
ジェンダー批評において性別とは、社会や文化によって形成された差異・役割です。フェミニズムと違い、男女両性を連続的なものとして捉え、男・女という一般カテゴリー自体に疑問を突きつけます。
批評理論入門では、ジェンダー批評の括りの中から〈ゲイ批評〉と〈レズビアン批評〉が取り上げられていました。
ゲイ批評の観点から見ると、ウォルトンの男同士の友情に対する憧れ、ヴィクターとクラヴァルの看病と旅行といった男同士の博愛がみてとれます。また、レズビアン批評では、ジャスティ―ヌに焦点が当てられていました。彼女は唯一男性との接点がなく、エリザベスへの熱のこもった言動などから、同性愛的な情念が垣間見えると分析できます。また、ジャスティ―ヌが死んだ理由に、同性愛という不浄の罪があった、と読み取ることもできるのです。
以上が批評理論入門のあらかたのまとめです。フェミニズムとジェンダーの違いが分かっていなかった私は、ずいぶんと理解が進みましたが、ジェンダー批評のほうが〈ジェンダー批評〉ではなく〈ゲイ批評〉と〈レズビアン批評〉であったため、肝心の〈ジェンダー批評〉とはなんなのかについて、授業内で少し掘り下げました。フェミニズムでは切り込むことのできなかった”性愛”というものをジェンダーでは取り扱うことができた。そのことによって見える世界も格段に変わりました。もちろんフェミニズム批評も、未だに存在する見えない性差別を暴くために重要な理論です。一方で、人間の性の在り方について問われるようになった現在の動きは、ジェンダー批評の成果でもあります。
まだ乗り越えられていない批評理論を知り、生きた学びをしているような感動を味わいました。うまく言い表せませんが笑
一点私が知りたいなと思ったのは、怪物がどうして自分を「男である」と自認したのかということです。当時は男女の二分に疑問などなかったでしょうから、男であることを認められないということは考えられていなかったでしょう。しかし、ジェンダー研究が進み、性自認の常識が変わりつつあるとき、怪物がなぜ男だと理解したのかを考えるのは面白いのではないかなぁと思いました。
4限では、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の冒頭を取り扱いました。フェミニズムの最大の功績は、生物学的性の上にある社会的な性規範を変えたことにあります。女性の表象の仕方を変えることで、法制度、女性の役割、地位などを変えることに成功しました。でも、それだけ。女性の表象を変えることは確かに大事ですが、性差については考えることができなかった。そのことを問題点として挙げています。女性とはなんなのかが曖昧であり、統一的な女の存在は結果的に無いと示され、フェミニズムの目標とせんことも結局は空洞化し、失敗してしまう……
という内容だったと理解しました。授業ではジェンダーを語る際、クリステヴァをよく例に上げます。「女」は存在しない、「女」というものは構造的に「男ではない」でしか説明できない ということ。逆もまた然り。たしかになぁと思うとともに、自分は今後自分の性をどのように表現したらいいのだろうという感想を持ちます。一般的女性としての風貌、自認をしていますが、本当にこのまま諸書類に「女」と書いてもよいのでしょうか。学べば学ぶほど世界が広がるとともに、変な悩みも広がるなぁとつくづく思います。