春学期第10回 3年ゼミ

こんにちは。今回の担当は大下です。
第10回目は増尾欠席により私一人のゼミ。こんなにも心細いことがあったでしょうか。先生と一対一の個人授業です。4限ではお世話になっている先輩方が4人も来てくださり、大変ありがたかったです。

ハプニングもあり、予定とは大きくずれ、『批評理論入門』から「ジャンル批評」「読者反応批評」「文体論的批評」の3つを行いました。3限で「ジャンル批評」と「文体論的批評」を先生と読み解き、4限で元のテクストと同じ内容の「読者反応批評」を議論しました。

と、いっても文体論的批評も3限内に終わらなかったので、4限に食い込んでいます。タイムキープごちゃごちゃでした。反省です。

「ジャンル批評」とは19世紀末頃から用いられるようになった分類の考え方。『フランケンシュタイン』にはロマン主義、ゴシック小説、リアリズム、サイエンス・フィクションの4つがあてはまると解釈され、紹介されています。話の焦点となったのは「文化批評用語辞典」に載っていたジャンルの一節から発展した話題。予習としてフェミニズムや現在のジェンダーに関する話を拝聴しました。疑問はすぐにぶつけ、じっくり解釈することができました。

続く「文体論的批評」は4限までのびたため、先輩と一緒に議論しました。ひっかかったのは「内的逸脱」と「外的逸脱」について。テクスト内に一定の基準が設けられており、そこから外れることを「内的逸脱」と表記しているが、では内的があるのなら「外的逸脱」もあるのだろうか、という内容。先輩方が大議論を繰り広げ、途中から口をはさめない状況に。けれども見事に議論が収束し、正しいであろう結論に達するところはとても鮮やかで見事でした。外的逸脱とはつまりテクスト外での逸脱を指し、作家や作品、ひいてはジャンルにおいて、それ自体の癖を基準と捉えることができるのではないか。ということになりました。(メモが正しければ)

さて、大議論のあと、残された時間は20分弱。大部分の議論が残されたままでした。超特急で話し合いたいところだけを掬い取って議論。残りは今度もともとの4限テクストの議論と一緒に行うことにしました。大きくは「修辞的な示し方」と「弁証法的な示し方」について、「読むということの怪物性」とはなにかの2点です。

まず、フィッシュの提案した文学の表現方法の2つ。「修辞的」な方では、作品は読者の知りうる情報を強化することに専念し、「弁証法的」では。読者に自分で真実を見つけるように挑みかけるように描かれているという内容です。読者の反応は後者に興味をもつとされていますが、私たちは前者でも、テクストの持つ社会性という点では他の時代において知的欲求を刺激され、挑発されるのではないだろうか、と考えました。

また、読むことの怪物性とは、作者によって押し付けられた読み手の人物像を押しのける力であると解釈し、作者の絶対的権力が失われ、読者によって解釈が変化するという「作者の死」という言葉が改めて浮かびました。

 

議事録は以上ですが、本来やる予定だった4限のテクスト、ヴォルフガング・イーザーの『行為としての読書』は、完全夏休み持ち越しとなりました。単位の出ない特別夏期指導。日程も未定。夏課題とのダブルパンチにおびえる3年生……。私たちの夏は豊かな楽園生活とは程遠いものになる予感がします。。

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