6月23日 南後ゼミナールとの合同WS 映画『誰も知らない建築のはなし』を観て

こんにちは。
今回は、6月23日に行われたワークショップについて報告をさせて頂きたいと思います。

6月23日、石山友美監督の映画『誰も知らない建築のはなし』のワークショップを行いました。石山監督をお招きし、情報コミュニケーション学部の南後ゼミナールと合同で行いました。
ワークショップの内容は、内藤ゼミ・南後ゼミが、それぞれ『誰も知らない建築のはなし』を鑑賞し、映画または建築について分析し、発表を行い、それらについて議論を行うというものでした。発表は、内藤ゼミ、南後ゼミの順番で行われました。
以下、それぞれの発表内容を紹介します。

まずは、私たち内藤ゼミの発表です。
発表タイトルは、「挑発する物語 —『誰も知らない建築のはなし』の怪物性—」。
私たちは、ウラジミール・プロップ(1895-1970)の物語の31の機能の理論を用いて、この映画には、安藤忠雄と伊東豊雄のWヒーローの冒険譚である、という物語の王道の構造があるということを読み解きました。
しかし、安藤・伊東のWヒーローの冒険譚であるにも関わらず、この映画は、冒頭と最後で同じ課題が語られるという円環構造を成しており、加えて課題の解決法が語られない「開かれた終わり」であり、ハッピーエンドでは終わりません。
では、何故Wヒーローはハッピーエンドを迎えていないように描かれているのか?それは、大衆に寄り添った建築で、民衆からの支持を得た安藤・伊東というWヒーローがハッピーエンドを迎えていないように描かれることで、観客が大衆目線の建築家を素直に肯定する気持ちを逆なでし、むしろそうした建築家のあり方に疑問を抱かせる意図があるのではないかと私たちは考察しました。

こうした分析を踏まえ、私たちは今後の建築家像について考察を行いました。
文学においても建築同様に、インテリで著名な作者の役割が最重要視される巨匠主義が台頭した時代がありました。しかし、1960年代にロラン・バルトが「作者の死」を提唱して以降、文学研究では作者だけでなく読者も作品解釈の主体たりうるという理解が共有されるようになりました。実際にインテリ作家の時代は終わり、あらゆる人が作者になれる時代が到来しています。
かつてインテリの仕事であった建築ですが、現在、安藤や伊藤のような大衆に寄り添った建築が支持されており、このような建築世界の状況は、文学と同じ道筋をたどっているように思えます。つまり、バルトの言葉になぞらえるならば、「建築家の死」の時代が訪れ、建築家という存在はいずれ無くなるかもしれません。しかし、作者が死を遂げた文学は、現在も残り続けています。磯崎は、映画において、建築家が「エンジニアになるのか、テクノクラートになるのか、アーティストになるのか」と語りますが、今後、建築家という従来の確固とした概念が希薄化し、建築家とそうでない人々の間の溝が埋まっていくかもしれません。しかし、文学が辿って来た軌跡のように、建築家がいなくなった世界でも、建築は作られ、残り続けていくだろう、というのが私たちの考察です。

映画を読み解くにあたり、建築の知識がない私たちは、非常に頭を悩ませました。また、映画自体も、複数の登場人物がそれぞれ異なったことを語っており、混乱させられ、”分かりにくく”、読み解くことは非常に難解であると感じました。しかし、この”分かりにくさ”、”難解さ”が、この作品の怪物性であり、観客に「この難解な映画を読み解けるか」という挑発に満ちた物語であった、ということから、発表のタイトルを「挑発する物語 —『誰も知らない建築のはなし』の怪物性—」としました。
この難解な物語を、建築の知識のない私たち内藤ゼミが読み解くことで、建築が抱えている問題は、建築家以外の人間にも全く関係のない話ではなく、またかつて文学が抱えていた問題とも共通していることから、建築と文学の異なる領域であっても共通の課題として考えられることを示すことが出来たのではないかと思います。

 

ここまでですでに長くなってしまいましたが、続いて南後ゼミの発表です。
南後ゼミは3班に分かれて発表を行いました。

はじめの、1班の発表タイトルは、「境界を“読む”―『誰も知らない建築のはなし』」です。
建築界を構成している要素や、『誰も知らない建築のはなし』の英語タイトル『Inside Architecture』から、建築界の内(inside)と外(outside)に着目し、ハワード・S・ベッカーの『アート・ワールド』や新聞記事から、建築界の境界について考える発表でした。

続いて2班です。発表タイトルは「映像に映り込むもの:『だれもが知っている建築のはなし』」です。
映画のカメラワークや背景、身振り、カット割りなどを分析することで、登場する建築家たちが、P3会議のように会議を行っているように描かれているという考察を行っていました。また、リオデジャネイロ五輪の閉会式で流された東京のPR動画を用いて、アンケート調査を行い、「誰もが知っている建築」とは何か、という考察を行っていました。

最後は、3班の発表です。発表タイトルは「『ポストモダニズムの建築言語』とInstagramから考えるスーパードライホール」です。
映画にも登場したチャールズ・ジェンクスの著書『ポストモダニズムの建築言語』とInstagramの検索結果から、2班で誰もが知っている建築と考察されたスーパードライホール及びポストモダン建築の受容のされ方などについて分析を行っていました。

発表後は質疑応答の時間が設けられ、南後先生や石山監督からコメントを頂くことができました。また、映画について、直接石山監督から、映画制作時のお話や、編集の意図などをお話いただくことができ、とても貴重な体験をすることができました。
最後には、全体を通して議論が行われました。「建築家の死」について、誰もが建築家になれる時代に対してどう思うか、などについて議論が行われました。とても議論が白熱し、終了予定時刻を大幅に過ぎてしまっていたのですが、とても充実した時間を過ごすことが出来ました。

ワークショップ終了後は、懇親会を行い、交流を深めました。今回は南後ゼミの提案で、レンタルスペースで、ケータリングを利用して行われました。内藤ゼミで懇親会を行う際は、いつも飲食店を利用していたので、新鮮でした。懇親会では、今回の発表についてや、各々の研究内容、各ゼミの雰囲気などについてゼミ生同士で意見交換が出来ました。内藤ゼミでは、基本的にテクスト分析がメインとなるので、アンケート調査やフィールドワークなどを行う南後ゼミ生のお話は新鮮で、とても興味深かったです。他のゼミとの合同ワークショップは、内藤ゼミにとって初めての試みだったため、他のゼミの研究内容や研究方法などをお話する機会がなかった私たちにとっては、とても貴重な体験ができ、充実した時間を過ごすことが出来ました。
石山監督、南後ゼミの皆さん、ありがとうございました!

 

写真は、ワークショップ後に行われた懇親会の写真です。
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執筆担当:提中

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