春学期第6回 3年ゼミ

こんにちは、大下です。
5月23日のゼミでは、3限に『批評理論入門』9「声」、10「イメジャリー」について、4限ではミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』第一章について議論しました。
3限のレジュメはこちらです。
第6回 「声」「イメジャリ―」

物語における「声」には、大きく分けて、モノローグ的なもの、ポリフォニー的なものの2つに分かれます。モノローグ的小説とは、作者の単一の意識と視点によって統一されている状態のもの、ポリフォニー的小説とは、多様な考えを示す複数の意識や声が互いに衝突する状態のものを指します。これは4限でも取り扱うバフチンの中心概念であり、彼の著書では、ドストエフスキーに特徴的な対話的(ポリフォニー的)テクストとは何かが語られています。
始めは文化批評用語辞典の記述に引っ張られ、モノローグについて「ほとんど存在しないものなのだ」と勘違いしていた私。議論の末、モノローグ的小説は、桃太郎のような、「主人公の一本のストーリーのために、ほかの登場人物は従属している小説」、ポリフォニー的小説は「そこに登場するいかなる人物も立体的に描かれている小説」だという風に理解することができました。つまり、世の中の小説の多くはモノローグ的であり、ポリフォニー的であることは非常に厄介であるということです。
先に4限で話したことを書きますが、バフチンはドストエフスキーの素晴らしさをこのポリフォニー性に見出しています。ポリフォニー的に書くということは、例えば登場人物Aの意見が作者の進ませたい物語の方向と同じだった場合、多くの物語では別の登場人物Bの意見はそれに賛成するか、対立意見だとしてもAの発言を補完するものになってしまいます。Bの発言を完全に対話的に描くのは難しく、そして非常にめんどくさいです。それを1から100までやっていたら、キリがない。そのことが、ポリフォニー化を難しくする原因だと言えます。
たしかにすべてが対話的な物語は、書く方も読む方も非常に疲れますし、それを上手に描き切っているということからは、ドストエフスキーの凄さが分かると思います。モノローグとポリフォニーの違いが理解できた瞬間、頭の中がすっと整理された感じがあり、とてもすっきりしました(笑)

さて、3限の話に戻りまして。イメジャリーとは「イメージを喚起する作用のこと」を指し、今回はメタファー、象徴、アレゴリーについて議論しました。
メタファー(隠喩)とは、「風車の森」といったような表現、象徴とは「鳩は自由の象徴」という表現が有名です。アレゴリーとは、寓意的物語に多く、抽象概念を教訓的に示す表現のことを指します。(「森」を「過ち」と結びつけるなど)
そのほかにも関連事項として、メトニミー(換喩)、シネクドキ―(提喩)についても触れたため、頭の疑問符は増加。身近な内容をそれぞれに分類していきます。

肌など存在そのものが雪に近しい〈白雪姫〉はメタファーで、ある一部分を切り取って比較していることから〈赤ずきんちゃん〉はメトニミーです。ほかにもメトニミーの例として、メガネをかけた人を「メガネ」という愛称で呼ぶことも挙げられます。
上位概念を下位概念に言い換えることを提喩といいます。換喩の表現に上下の概念を足した感じです。うーん難しい。追加内容だったのでさらっと理解したにとどまりましたが、やはり復習が必要なようです。

そして、議論はアレゴリーとはいったい何のことかについてに発展していきます。ヴァルター・ベンヤミンらが唱えた〈アレゴリーはシンボルより優勢である〉という考え方がさっぱりわからず、先生のお力をお借りしながら、ゆっくりと読み解いていきました。アレゴリーは、ある具体的概念(森など)の背景に、神話などの別の背景が読み取れる場合、その神話などの別の背景におけるメッセージが想起されるということで起こります。一方、シンボルというものは、なぜそのものが全く結びつきのない抽象概念を想起させるのか、ほとんどの場合解釈することができません(鳩がなぜ自由と結びつくのかなど)。そのため、アレゴリーは起源が分かっているという点でシンボルよりも優位に立つ存在であるのです。
……以上のことを理解するのに、30分以上はかかりました。その後ポスト構造主義→構築主義→脱構築などの説明をうけて3限は終了。本日も体力をゴリゴリ消費する3時間でした。

大下由佳

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