秋学期第10回ゼミ

お久しぶりです。今回のブログ担当の前田です。

ここまで二回にわたって夏目漱石の『こころ』と、それに対するクイア批評であるキース・ヴィンセントの論文について議論してきました。今回は今までとは打って変わり、これらの議論の内容理解を深めるためにゼミ生それぞれが『こころ』の批評を行いました。

共通の作品の批評といっても、やっぱり人によって切り口が違うため個性が出ます。それらの多様で乱雑な発想を統合し、新たな観点を導き出すことができるのもゼミの醍醐味かもしれません。

以下は議論中に出た見解についてです。

ある人は、前回の課題として挙げられた「行為遂行性」という概念と絡め、『こころ』のセクシュアリティを論じました。言語には、事実そのものを言う「事実確認的発話」と、その言語自体に遂行の意を与える「行為遂行的発話」の二つが挙げられます。この作品の語りが遂行的な機能をもつものとして読むと、『こころ』とは読者にセクシュアリティを経験させる意図で書かれた、なんとも性教育じみた物語として解釈することができます。

またある人は、『こころ』を西洋優位的な思想に支配される日本を描いた、ある種のポストコロニアル的な作品だと論じました。都会の地で西洋の学問に精通した先生を讃え、田舎に暮らす古くさい父親に対してしばしばネガティブな思いを抱くという対比は、確かに西洋の思想に淘汰される古き日本を連想させます。

さらにある人は、『こころ』に加えキース・ヴィンセントの論文の批評を行い、彼の論が抱える限界について指摘しました。キース・ヴィンセントは論証する過程でフロイトの論を用いていましたが、それでは論の核となる「主人公は同性愛者か異性愛者」かという問いに対する答えが、解釈次第でどちらとも取れてしまうという問題が挙げられました。その打開策として、セクシュアリティを論じる上では新たな理論を導入することが必要ではないかという提案がなされました。

どれも面白い意見であり、なおかつ今後の研究に必要なイマジネーションを呼び起こしてくれるものだったと思います。特に僕らの学年はジェンダー論に興味がある人が多く、キース・ヴィンセントのセクシュアリティ批評まで絡めて論じることができたのはとても有意義なものだったと思います。

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