こんにちは、横野です。
今回のゼミでは小野俊太郎の「ジェンダーとセクシュアリティ」について前田くんが発表し、その後みんなで議論をしました。
発表を通して、『女性の身体の「物質(唯物論)」的な基盤と再生産』についてと、文章中に多々見られる『サイボーグ』という言葉の意味についての2点が論点にあがりました。
上記の2点は後で話し合った結果を書きますね。まずは発表内容から!
生物学的なオス・メスというのは長年、人間社会のすべてを決定すると考えられてきましたが、それでは説明のつかないことが発生してきました。それがジェンダーとセクシュアリティの議論に繋がります。
ジェンダーとは「社会における[男女]という性差あるいは性役割」のこと。
一方セクシュアリティは「性的なことがら、特にセックスのパートナー選択に関すること」とあります。
これらジェンダーとセクシュアリティは全ての人に関わっていますが、普段は目に見えず私的なものとなっています。しかし、何かのきっかけで公的な場に“暴力的に”表出するんだそう。
また、先ほど書いたジェンダーは、境界線を「権威」や権力」によって人為的に作られてしまった為、身体的な性とジェンダーにずれが生じる性同一性障害などの事例が見られます。
また、男性優位の「父権制」に対抗したフェミニズム理論が、結果的にジェンダー理論への理解を深めるきっかけとなりました。また、フェミニズムの知見を受けて「女性らしさ」だけでなく「男性らしさ」というものの形成にも注目が集まるようになったそうです。
ここまでジェンダーについてお話しました。次はセクシュアリティについてです。セクシュアリティないしセックスという行動に関して言うと、あまり公然と話すべきでないという風潮がありますよね。もちろんそれは現代でも変わりません。ですが、セックスという行動自体はその人自身の人物評価を大きく左右する事項となっています。これを「公然たる秘密(open secret)」と言います。
例えば、同性とのセックスを行うこと、また異常な異性愛(幼児愛やセックス時に痛めつけるような行為をする愛など)に基づいたセックスを行うことは実子中心主義によって良くないこととされ、通常の異性愛によるセックスを行う人物より下等な存在として捉えられてしまいました。このように、医学の言説(実子中心主義)がセクシュアリティとその人のアイデンティティを結びつけることに繋がってしまったのです。
また、ジェンダー運動において、女性の人権などを尊重し同性愛者がその運動から排除される事例がありました。ここから蔑称である「クィア(queer)」をあえて用い、差別を受け止めながらも対話や議論を進めていく「クィア理論」が生まれていきました。
次にアイデンティティの新しい見方についてです。
「バディ物」という刑事作品などでよく見られるジャンルがあります。男同士が心を通わせ、ヒロインを奪い合うという構図が良く描かれる作品ですね。こういう作品はあくまで「男同士の絆」を描いたものであって、その男性たちを「ゲイ」とは思いませんよね。
これについてイヴ・K・セジウィックは「ホモソーシャル」と「ホモセクシャル」の区分として、ホモソーシャルな欲望は性愛を伴わない男同士の友情であり、社会を構成するメンバーの確認様式である。この考え方の背景として「女性蔑視(ミソジニー)」と「同性愛嫌悪(ホモフォビア)」があると書いています。
しかし、近年では上野千鶴子が『スカートの下の劇場』において女性同士の友情について提示を行うなど、ホモソーシャルな要望へ亀裂をいれる試みが行われています。
そして、ジェンダーについてジュディス・バトラーは『ジェンダー・トラブル』の中でジェンダーやセクシュアリティは身体で決まることはなく、社会によって捏造された言説や身振りが反復されること(=演じること)で成立すると書いています。これは社会構築主義にあたりますね。
そして、ここで一番最初に書いた2つの疑問点が論点に挙がりました。
まず、女性の身体の「物質(唯物論)」的な基盤と再生産という言葉。この「基盤」と「再生産」というのはどういう意味…?と皆で話し合った結果、「子どもを生む行為」であると結論付けました。後に書かれるサイボーグにかけた言葉でもあると思われます。学術的な文章とはいえ、女性陣からは機械的な表現で描かれていることに対して少し否定的な言葉も挙がっていましたね。
そして、サイボーグについて。まず、前田くんが「サイボーグってなんなんだよ…」と疑問に思ったことから始まり、小野俊太郎のサイボーグについての考え方を文章から読み解くことに。
その結論として、サイボーグというのは「労働する為の変化をする手段として何か人間の自然現象で発生しない人工物を身につけたもの」ということに。極端に言うと、人間が作った靴を履いた時点で、「足を防御しより労働しやすくなるようになったサイボーグ」ということになります。あまりに極論過ぎて皆絶句(笑)
ですが、逆に言うとサイボーグに男女差はありません。つまり、道具を用いた人間は男女関係なくサイボーグになるということですね。ある意味平等ではあるのかも…。
話は逸れてしまいましたが、このようにサイボーグの事例も挙がりました。
そしてジェンダーに関して近年ではジェンダーのイメージの氾濫が起こっています。また、ジェンダーへのイメージはその人の視線の働きによって変化するとも書かれていました。そして、ジェンダーに対するイメージは幾度もコピーや再生産を繰り返され消費をされているんだそう。BLものを読む女性、レズビアンもののアダルト作品を見る男性というように、新たなイメージがついても結局は生産・消費・流通という道を辿っていくのです。
こんな感じで秋学期第7回のゼミはジェンダーやセクシュアリティについてなかなか責めの考え方を持った文章を使って皆苦しみながら議論を進めました!
この後またジェンダーについてたくさん議論や発表を重ねることになっているとは露知らず、無事に授業を終えました(笑)