秋学期第4回ゼミ

こんにちは。
今回は、秋学期第四回授業についでです。
今回は新歴史主義についての理解を深めるため、
杉井正史氏の「シェイクスピアとロンドン」という論文を使用し、議論を行いました。
執筆担当は提中です。

この論文では、16世紀前半、闘犬や熊いじめといったものと同等なレベルであった劇が、高度なレベルの文化にまで成長した背景には、シェイクスピアやマーローといった才人によるところの他に、エリザベス・ジェームス朝という時間、またロンドンという場が大いに関係しているとし、大衆劇場の発生はロンドンという都市の地理的要素、政治的な要素とどのように関わっていたのか、とくにリバティと呼ばれた特別行政区の役割について、シェイクスピアの喜劇『尺には尺を』を取り上げながら、考察しています。

ここで一度『尺には尺を』の簡単なあらすじを紹介します。
ウィーンの公爵(≒国王)ヴィンセンシオ公爵は、厳格であるアンジェローに公爵代理を任せて、自らは旅に出るといって姿を消すが、実際には、修道僧に変装し、国内の状況を視察する。公爵代理となり統治を行うアンジェローは性道徳について厳しく取り締まり、結婚式の前に許嫁を妊娠させてしまった男・クローディオに対し死刑を宣告する。しかし、クローディオの妹・イザベラに刑の執行を止めるように懇願されると、彼女の美貌に魅了された彼は欲望に屈し、「自分の欲望を満たしてくれるなら、兄を助けてやる」という交換条件を出す。最終的にヴィンセンシオ公爵は正体を現し、悪行を犯したアンジェローに死刑の宣告を下す。しかし、最後には全ての人物が許されて幸福な結果を迎える
という話です。(かなり省略したあらすじなので、気になる方はご自身でお調べ頂くと幸いです。)

今回の授業では、まず、何故外部にリバティという治外法権の場がつくられたのか、ということが議論になりました。リバティは、郊外に存在する地区で、エリザベス朝時代、酒場、淫売窟が王から公認されている場所で、劇場もリバティに出現していました。議論では、リバティという外部に設置された治外法権の場所で発散させることで、内部に権力を適用させることが出来るからなのではないか、という結論になりました。今の世の中でいう競馬や競艇のようなものでしょうか。

さて、次にこの論文は、どう新歴史主義的なのか、ということが議論になりました。新歴史主義について簡単に復習すると、小説や演劇などの言説も歴史の一部になり得る、という考え方です。(詳しくは春学期第14回ゼミの記事にあります。)

この劇の批評史の初期は、「公爵は神の代理人である」という説が有力でした。作品の中で、アンジェローの厳格な立法主義に対して、公爵が寛大な慈悲を施すことによって、自らの統治を回復する、という面に注目すると、公爵は“神の代理人”という解釈がされます。
しかし、現在の批評では、“神”という解釈の逆で、公爵は“神”ではなく私利私欲で動いている、という解釈がされています。国民に自由を与えるように見せながらも、一連の騒動を通して国民を機構の中に封じ込めるという、陰険な権力メカニズムの策謀を、公爵の中に見ようとしているのが現在の批評です。

この劇では、「性」と「死」という人間の二つの属性を最大限に前景化させながら、「自由」と「抑圧」についての言説を提示しています。統治の権力は、一度民衆のもとに晒されますが、この過程を通して人民はより強固に権力機構の中にとりこまれます。『尺には尺を』はこのような権力メカニズムを暴露しています。そしてそれは、エリザベス・ジェームズ朝の、大衆演劇自体の機能も暗示しています。演劇は権力に対する批判の視点を持つが、同時に権力による欲望の封じ込めの手段でもあったため、演劇は現実を映し出す鏡となり得た、ということが書かれていました。『尺には尺を』という作品は時代を反映している作品だということが言え、この点が新歴史主義的であるという議論になりました。

今回のブログ、まとめるのにかなり苦戦してしまいました。頭では理解していても、誰かに伝えられるように文章を書くのはとても難しいですね。精進します。

今回の議論では、フーコーの権力論の話にもなりました。そして権力というものについて詳しく消化することが出来なかったため、次回の授業で、権力論について詳しく扱うこととなりました。
では、また次回もよろしくお願い致します。

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